最近よんで面白かった本は、村岡晋一『対話の哲学 ドイツ・ユダヤ思想の隠れた系譜』(講談社選書メチエ)ですね。19世紀後半のドイツにおいて、ヘーゲル主義の席巻を経て、自然科学を統整する新カント派が勃興し、西南学派とマールブルク学派があらわれるが、19世紀後半の啓蒙思想にどっぷり浸かったユダヤ系知識人のなかからも、この学問流派の有力な担い手となるヘルマン・コーヘンという哲学者があらわれた。しかし反ユダヤ主義が隆盛するなかで、晩年の彼の思索はユダヤ思想へと向けられていく。彼の思想を継承した二人の弟子が、カッシーラーとフランツ・ローゼンツヴァイクである。
コーヘンがユダヤ思想を背景に棄却するのは、同一性の思考である。

近代哲学は、私が私にたいしてもつ意識、つまり自己意識こそが〈私〉の本質だとみなして、それを根本原理にまで祭りあげてきた。デカルトの「私は考える、ゆえに、私は存在する(Cogito ergo sum)」や、カントの「すべての表象には〈私は考える〉がともないうるのでなければならない」という命題が示すように、〈私〉の絶対的な同一性こそが、ほかのすべての存在の真理性や統一性を保障するものとされてきたのである。それにたいして、ユダヤ教の〈私〉は〈君〉としての他者に徹底的に浸食されている。ユダヤ教においては、外部のあらゆる関係を放棄して〈私〉の事実性に立ちもどることが同時に、この〈私〉のそとへ出て、神という絶対的な他者、大文字の〈君〉に出会い、関係することであり、そしてそれがさらに新しい〈私〉を更新することだからである。〈私〉は「瞬間と瞬間の連続性とによって生み出されている」…。〈私〉は新たな生へのたえざる飛躍であり、そうした意味で無限の「課題」…にほかならない。(68ー69)

つまり、同一性の思考はモノローグの思考であって、〈外部〉あるいは〈他者〉と遭遇することがない。そして、西洋伝統哲学の「ほんとうとはなにか?」という問いの形式こそが、このモノローグの思考の特徴である。同じ文脈で、コーヘンによる、存在神学の棄却がとりわけ興味深い。「神の存在」と「世界の存在」をイコールで結び、世界の謎を解くことを神の存在への問いでもあるとする思考形式は(=要するに哲学の存在論は)、ユダヤ教的には同一性の思考に侵されたものと否定的に見なされ、却下される(50)。ローゼンツヴァイクのまとめに従えば、「神」と「世界」と「人間」を普遍化する形而上学の伝統は、「宇宙論的な古代」「神学的な中世」「人間学的な近代」のあいだを行ったり来たりするだけの、自動化された思考(=モノローグの思考)に陥るのである(=どれか一つを残りの二つで説明するってこと)。
そのうえでさらに面白いのは、〈「外部」と対峙する「個」〉という図式から導かれうる「実存主義的な思考図式」が、親和的ではあるにせよ、注意深く避けられている点である。死に対峙することで本来性を回復する、というハイデガー図式は、あまりに劇化された実存のイメージであって、これは常識的に受け入れがたい部分がある。たしかに人間の生は孤独であり、自分自身の死は自分自身に固有なものであるが、ここから「対話」の可能性も開かれるのであって、孤独であるがゆえに他者と遭遇する、その可能性の条件としての「沈黙」が、ごくごく日常的に積極的な意味を持ちうることを見落としてはいけない(ローゼンツヴァイク、105)。これは著者がこだわっている「呼びかけ」の問題(文法論や言語哲学)or「聴くこと」の重要性、とも関連してなかなかいいと思ったね。あと「我と汝」のブーバーが批判される視点もとても面白い。(ドイツ観念論批判からプラグマティズムとの近接性もありそう。)
関係ない話だが、大学一年のときの哲学史の授業はT・T先生が受け持っていたのだが、自分は完全にバカにしていて「哲学やってて哲哉ってどんな安易なペンネームやねん!」だの「〈汝の顔が殺すなかれという〉とか、ゆで卵みたいな顔で言うなかれ!」だの、思えば野蛮なことを口走っていた遠い記憶があるわけだが、よくよく考えれば大変申し訳ない話であって、そんな自分も『全体性と無限』なんかを拾い読みしてみて「レヴィナス深いわ」と感じるようになった昨今なのである。社会における超越性の問題は、一神教の専売特許ではないし、一神教の神学的意味を考えるところから逆に、超越性についての普遍的知見を引き出すことが可能であるとも思われる。なんちゃって。
そういや、宮沢賢治って、あの人は〈他者〉に出会ってるんでしょうかね?