木村大作『劔岳 点の記』(2009)

2時間19分 出演 浅野忠信香川照之松田龍平宮崎あおい
新田次郎の原作を基に、日本地図完成のために命をかけ未踏峰劔岳”の測量に挑んだ男たちの執念を、映画撮影の巨匠木村大作が、キャメラマン人生の経験と情熱をかけ初監督として挑んだ稀有な感動作!! http://www.tsurugidake.jp

「山になぜ登るのか?そこに山があるからだ」という問答があるが、これはまさに「近代」そのものを体現している。近代の社会原理は、自己の根拠を、自己自身から備給するのであって、この意味で、近代(モダン)はポストモダンをその内部に含み込んでいる。外部の根拠は存在せず、本来的に再帰的な不安定性から逃れることはできない。
明治期、山岳部と陸軍測量部の劔岳登頂競争。測量部の浅野忠信は、ただ山に登るだけの山岳部(仲村トオル)を内心で軽蔑している。測量部には三角点を設置し、日本地図を製作するという立派な使命が課せられているが、ただ遊びで山登りをするというのは、山をナメているのではないか、と浅野は訝しむのである。
しかし浅野忠信は、あまりにも険しく人を阻む劔岳を前にして、迷い始める。そもそも、なぜ地図を作る必要があるのか?劔岳の頂上でなくても、地図は作れるのである。さらに地図を製作することは、人間が世界を理解し、手に入れるためだとして、それ自体にいったいどのような意味があるのか。ただ山に登る、という山岳部の振る舞いと、その無根拠性において変わりがないのではないか。
この映画が「怪作」であるのは、山を征服するという使命の近代性が暴かれ、それとは異なる原理が突きつけられているという特殊な思想性が漲っているからである。登頂に成功した時点で、彼らは自分たちの成功の意味を、別のステージで考えるようになる。山を征服したら偉いのか?最初に征服することが偉大であるのか?いや、それは違う!!世界を征服し獲得することの意味は、劔岳の頂上で厳しく問い直されるのである。
だが、ここで問題が発生する。この作品で提起されている図式は、私の見るところ、「帝国主義的西欧近代」vs「アジア主義的(大東亜共栄圏的)反近代」である。くわえて、「アジア主義的反近代」の思想的基点としては、日本的伝統が参照される。山頂で、登頂競争を諫めるかのように発見されるのは「山伏の錫杖」なのである!!「目的−手段図式」としての近代を超克する、アジア的共同体主義
一番も二番もない、征服には何の価値もない。そこまではいいいのだが、それを正当化する原理が日本的伝統(前近代)であり、かつ、そこから急に「みんな仲間だ!」というメッセージが発信されるのは、思想的にはかなり問題があると思う。モダンはダメだとしても、それを相対化するためには、モダンに内包されるポストモダンの不安定性に耐えるところから出発するしかない、というのが自分の考えなのであるが、どうだろうか?
と、まあ、書いてて、完全に深ヨミしすぎてると思うわけだが、男くさーい映画で、付け足しのように“和服激萌え幼妻”宮崎あおいが登場するシーンは、『曲がれスプーン!!』で大コケの長澤まさみであって欲しかった、というのがもうひとつの感想。それにしても変な映画だったので、いちど皆さんにも見てもらいたいと思いますね。自然描写も美しい。