テイラー『今日の宗教の諸相』(岩波書店)を昨晩読了。たいへん興味深い書物。ジェイムズ『宗教的経験の諸相』を批判的に読解し、あくまで個人の宗教体験に照準する(プロテスタント流の)彼の方法論が、今日的な宗教経験の有り様を浮き彫りにする点で有用性をもちつつも、宗教の共同主観的存在様式を捨象するものである点で限界を有すると位置づける。ここで「今日的な宗教経験の有り様」とは、不可知論的な近代科学のパラダイムがあくまでひとつの立場にすぎず、信仰の立場は別の水準で維持されうるとするジェイムズの議論内容が、今日的にリアルだ、という意味。テイラーによれば、宗教と個人の関係には、3類型を見出しうる。旧-新-ポスト-Durkheimismがそれであり、自明で揺るぎのない宗教的真理と世俗的政治秩序(国家)は(旧)、個人が選択的に選び取るような形へと変化し(新)、第二次世界大戦後とりわけ1960年代以降の消費文化のなかでは、新たに表現主義個人主義という形式に変容した(ポスト)。「なぜ信仰なのか?」が根源的に問われる第3段階では、ジェイムズ的な「信仰/世俗」の対立が先鋭化するのだが(よってジェイムズがリアルなのだが)、しかし新たな表現主義的(真正さを追求する)個人主義は、決して個人に自閉することのない他者関係を前提とする、とテイラーは主張している。
一言で言うと、「社交」の可能性、ということになると思うが、国民国家の時代(個人が選び直しつつもいまなお共有の超越的価値・政治秩序に仕える段階)の終了を確認した上で、個人がいかに社会性を自らのものとできるのかという課題は(砂粒化する個人化をどう超えていくのか)、そのような方向性が規範的に望ましいことは疑えないものの、やはりなお明瞭ではないと思える。