クリント・イーストウッド『グラン・トリノ』(2009)

Gran Torino 117分、製作総指揮 ジェネット・カーン、ティム・ムーア、アダム・リッチマン 製作 クリント・イーストウッド、ビル・ガーバー、ロバート・ロレンツ 脚本 ニック・シェンク 音楽 カイル・イーストウッド、マイケル・スティーヴンズ 撮影 ティム・スターン 編集 ジョエル・コックス、ゲイリー・D・ローチ
クリント・イーストウッド(ウォルト・コワルスキー)、ビー・ヴァン(タオ・ロー)、アーニー・ハー(スー・ロー)、クリストファー・カーリー(ヤノヴィッチ神父)

負債なり贈与なりとは、つまりは過剰のことであって、ウーと重低音で唸る偏屈老人コワルスキーは、その沸点上昇速度を見れば、明らかに実存的に過剰である。この過剰な情念にいかなる形式を与えていくか、そのような形式をいかにして見出すかが、自己の美学の追求という課題としてある。もちろんその形式は、形式的なもの、借り物であってはならず、それゆえ選択された形式は、破綻すれすれの緊張の上に成立するものでなくてはならない。安住できる物語(他人が説く救いの教説、あるいは自分がかつて見出した自己物語を含めて)など存在しない。
グラン・トリノを盗もうとしたモン族の少年タオの負債。この負債(=マイナスの贈与)は、タオや姉スーの「プラスの贈与」によって相殺され、姉弟の贈与は逆に、コワルスキー(クリント・イーストウッド)の(心理的)負債へと転化していく。そもそもコワルスキーは朝鮮戦争での殺人という負債を抱えていた。負債を贈与へと転換し、そこに形式を与えていくこと。形式が借り物とならないよう、他者からの理解を求めつつ拒む被虐志向。その偏屈の美学が、たんに個人的なかたちで完結しているのではなく、ある他者にとってはマイナスの、別の他者にとってはプラスの贈与として、他者へと開かれていくラストにじーんときた。あんな風に汚らしく痰を吐き捨ててみたい。最高のキチガイジジイ。