NHKで震災一ヶ月特集。散乱する瓦礫の山を前にして、「ここはたくさんのひと(遺体)が上がった」と地元の人が話していたけれど、それを聞いているとやはり心が痛む。「地震の直後、もう少しちがう判断をしていれば助かったのに」と、ありえた別の可能性を思い浮かべてしまうのが、津波という災害の特徴かもしれない。もしかしたら死ななくてもすんだかもしれない、という想像力は、ひとをさらに深い喪失感・無力感へと追いやりもするだろう。
7月の南米選手権に不参加を決定した日本サッカー協会だが、南米選手権のグロンドーナ会長が翻意を促したというニュース。海外組の招集は南米選手権が責任をもつ、と。これはなかなか感動的なふるまいだ。制度は人のためにあるのであって、人が制度のためにあるのではない。当たり前のことだけれど。
http://hochi.yomiuri.co.jp/osaka/soccer/etc/news/20110409-OHO1T00088.htm
日本の病理は、コンセンサス社会の病理だ。交通事故で亡くなった人まで現れたというのに、本当に必要であったかどうか定かではない計画停電を粛々と受け入れる。たしかにそこには、ある種の連帯の可能性が宿されているかもしれない。しかし制度はもっと人間的に運用される必要があるし、そのためには人間的な決断が下されなくてはならない。日本社会がこれに現在進行形で失敗しつづけていることは、いまや誰にでも分かることだ。