たったいま、土壌からプルトニウムが検出されたとの報道。格納容器の破損は確実で、放水しても水は溜まらず、炉心は冷えないまま、放射性物質のみが噴出されるという、「制御不能一歩手前」の危機的状況にあるようだ。
昨晩は、どんなことを話し合っているんだろうかと思って、西村賢太『暗渠の宿』(新潮文庫)を読みながら、TBSラジオ文化系トークラジオLife「このメディア環境を生きる」を途中まで聴いていたのだが、ちょっといろいろ問題を感じた。
根本的な問題点は、われわれが直面している事態が、「不確実性のただなかで、個々人が<暫定的な合理的決定>をその都度導いていかなくてはならない事態」であると、出演者たちが気づいていないのではないか、ということだ。ここでは、「正しい情報/デマ」「正しい認知態度/不安に煽られたパニック的態度」などの区別はそもそも成立しがたい(成立してもそれがあまり意味をもたない)。外部観察の準拠点を設定するうえで前提となる「専門家集団への信頼」「政府発表への信頼」がすでに損なわれているからこれは当然である。その要因は、いまさら言うまでもないことだが、(1)政府のパターナリズム大本営発表)、(2)事態がそもそも原発学者が事前に想定していた危機レベルを超えている(=よって専門家システムへの信頼はすでにその前提から崩れている)、これと関連して(3)利害関係者としての御用学者、(4)記者クラブと東電癒着で機能不全のマスメディア、などなど。
すなわち、われわれは全員が不確実性のなかに放り込まれたプレイヤーなのであって、そこに「外部」は存在していない。それなのに、あたかも「外部」があるかのように、「デマがこうして広がった」とか、「専門家と受け手をつなぐ回路が必要だ」とか、「科学的リテラシーの必要性」とか言って見せたところで、それらの評論家的言説に説得性が生まれるわけがない。必要なことは、不透明性・不確実性にもかかわらずその内部で分析的知性を持続的に発揮させることであって、「メディアのアーキテクチャがこうなったらコミュニケーションはこう流れる」みたいな設計主義的発想は、現在なんの役にも立たないのである。リスクに手探りで迫っていかなければならない。
付言すると、現状、知識人・言論人には「冷静バイアス」が働いているのではないか、というのが私見である。平常時であれば、「不安に煽られるのは一般大衆で、責任ある言論人・知識人は感情をコントロールして冷静に情報に対峙できる」という前提が成立している。しかし現在は情報の確度が著しく損なわれた非常事態なので、この前提図式は通用しない。にもかかわらず「知識人」は、(1)「原発は危険、放射能は危険」という言説と(2)「原発放射能の危険視は誇張されている」という言説を並べられてしまうと、「冷静バイアス」によって後者の言説を選択してしまう(のではないか?)。まあ、こんなのにひっかかるようでは、いけないのであるが。
では、不確実性にもかかわらず分析的知性でもって対処するとはどのような態度を言うのか? このyoutubeを見よ(ニーチェ風)。関西人おそるべし。
http://www.youtube.com/watch?v=YfjuJepvSRY&feature=related