数ヶ月前、寺脇研ツイッターで「自校の生徒を(「幼稚だ」と言って)バカにする学校の先生」にブチ切れていたことがあったのだが、これってけっこう深い問題だと思うんだよね。つまり、社会の中で人間はフツウに他者からの評価にさらされるわけだが、「教師が生徒に下す人格的評価」には、(寺脇を怒りに駆り立てたような)何らかの特別な要素が含まれているのではないか、ということだ。教師が「あの生徒はダメな奴だ、出来ない奴だ」という行為は「レッテル貼り」のような違和感を生むが、会社などの利益集団的社会関係の内部では、それが「レッテル貼り」だとは必ずしも見なされない。
直観的にいうと、これは人格的評価が賭金になっている社会関係と、人格的評価が副次的な意義しかもたず、しかもその効果・影響が限定されている社会関係との違いではないかと思われる。前者には、学校もそうだが、家族関係なども含まれる。親が子供にたいして「こいつはダメな奴だ」と裁断を下すとすれば、それは子どもにとってトラウマにもなるだろうし、一般的に親の望ましい教育の姿だとも考えられない。
なぜ前者において人格的評価が敏感に取り扱われるかというと、おそらく「人格的評価というものが構造的に不可能性を帯びている」という機制が関係しているのではないか。つまり、人間が人間に向かって「おまえはいい」とか「わるい」とか真面目に言うとしたら、「そういう風に評価を下している当人は何者なのだ?」という問いがすぐに浮かび上がってくる(「良い」という場合には問題は生じないけれど)。「親や教師といった権威を笠に着て、そんなことを言っているだけではないか? オマエこそなんぼのもんじゃい?」というわけだ。人格的評価というのは原理的に意味内容が無限の広がりをもつので、そしてその無限の広がりに対応するのが学校であり家庭であるとの社会的役割が期待されているので、素人ですらすぐに批判できてしまうような、粗い人格評価基準は、社会的に糾弾される余地が大きくなる(それにもかかわらず教師が粗い人格的評価を安直にやらかしてしまうという別の機制も存在する)。
これに対して、利益集団的社会関係においては、人格的評価というのは一種のネタみたいなものであって、万能の有効性をもたない。たとえば経済社会において、経済的劣位にある者が、経済的優位にあるものに対して人格的評価を下すとなると、「ねたみ」とか「こびへつらい」とか「おめでたい人」みたいな評価がブーメランのように帰ってくるだけだ。神学的な意味で、人格的評価というものが構造的に不可能であるとして、しかしそんなこととはもはや無関係に、そもそも人格的評価が毒にも薬にもならないような社会的コンテクストが存在している、ということなのではないか。
なんか「深い」と思ってたけど、当たり前なような気もしてきた。花粉症の飲み薬を飲み始めて、頭がぼうっとして、上手く考えられない。