狂言「呂蓮 大藏吉次郎(大蔵流)」、能「百万 高橋章(宝生流)」。国立能楽堂
「呂蓮」は、觥見物の出家者が宿の主人に説法を行ったところ、感激した主人が出家を所望し、剃髪のうえ、呂蓮などというテキトーな名前まで決めてしまったのだが、それを知った鬼嫁がカンカンに怒り、主人と僧を「食い千切ってやる」と追いかけまわす話。女房はドーベルマン(野村監督(C))。
世阿弥の改作、能「百万」は物狂モノ。世阿弥は「此道の、第一の面白尽くの芸能なり」と、申楽のなかでも有望ジャンルだと言っている。

此道の、第一の面白尽くの芸能なり。物狂の品々多ければ、この一道に得たらん達者は、十方へ渡るべし。繰り返し繰り返し公案の入るべき嗜みなり。仮令(けりょう)、憑き物の品々、神・仏・生霊・死霊の咎めなどは、その憑き物の体を学べば、易く、便りあるべし。親に別れ、子を尋ね、夫に捨てられ、妻に後るる、かやうの思ひに狂乱する物狂、一大事なり。よき程の為手(シテ)も、ここを心に分けずして、たゝ一偏に狂ひ働くほどに、見る人の感もなし。思ひ故の物狂をば、いかにも物思ふ気色を本意に当てゝ、狂ふ所を花に当てゝ、心を入れて狂へば、感も面白き見所も、定めてあるべし。かやうなる手柄にて、人を泣かする所あらば、無上の上手と知るべし。これを心底によくよく思ひ分くべし。『風姿花伝』「物狂」

ここで世阿弥が言っているのは、物狂いといっても、アタマがおかしい呪い・乱心・憑き物系の狂気だけを演じていればいいと思うのは浅はかな役者であり、狂気に陥った事情はさまざま(子別れ、失恋、死別)なのだから、狂気から回復して平常人に復帰する可能性も含め、そこらへんを繊細な物語として演じることが「人を泣かする」能をするためには大事なのである、ということだ。夫と死別し、子と別れ、奈良で女曲舞(くせまい)のスターであった百万(ひゃくまん、実在の人物)が、春爛漫、嵯峨野の清涼寺境内の大念仏で舞を舞い、子と再会するのは、まさに世阿弥のいう後者の狂気にあたる。
烏帽子をかぶって男装し、狂気を示す笹の葉を携え、大念仏を唱和する群衆の只中、女物狂は苦しい心の内を曲舞で語ってみせるのだが、子どもはすでに母親であることに気づいているし(「これなる物狂をよくよく見候へば、故郷の母にて御入り候、恐れながらよその様にて、問ふて給はり候へ」)、春の暖かな陽光が差し、清涼寺の生身の釈迦仏の功徳もめでたくもありがたい状況であって、悲劇は悲劇でも「良かったね」という落ち着いた幸福感が感じられる、そういう作品である。

古典を読む 風姿花伝 (岩波現代文庫)

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