「オレは保守主義者だからE・Burkeが好きでRousseauがきらいだ」という人がたまにいるのは、まったくもっておかしなことであることのメモ。本文を読めば、Burkeが私淑していたHumeがRousseauと会話したエピソードが出てくる。曰く、Rousseauは奇矯な人ではあったが鋭い人であり、彼は宗教の力が失われた時代、著作によって「人々を驚かせること」が必要だと自覚していた。だからこそああいう逆説的な主張をしたのである。その逆説を理解しないのは、キケロストア派をベタに理解したカトーを評したごとく、愚かなことだ…云々。
人間の理性が発揮される場としての政治機構=国家の重要性という視覚は、基本的にキリスト教的な国家観においては稀薄であり、これはMachiavelliを媒介として、Rousseauにおいて理論的表現を獲得した。この国家観の理論的正当化に変えて、British Constitutionという伝統的・歴史的正当化をもちだしたのがBurkeなのだから、国家を超越的に支えるものが「理性・一般意志」から「伝統・歴史・自然」にかわっただけで、近代特有の基本的発想は両者においてきわめて同質だったとも考えられるわけだ。ましてや右派ホイッグ(?)という微妙なポジションにおいて、彼は民衆を信頼するとともに、その情念の暴発を怖れていたので、まさしく『省察』によって「人々を驚かせること」(=実存的に揺さぶること)を狙っていた点でも、ほとんど同志的な共通性を見てとっていた可能性すらあるのではないか。