積ん読がなぜ罪悪感を生じさせるのか、いま分かった。読むべき必然性があるから積まれているにもかかわらず、読む時間がみつからないから、積ん読は嘆かれるのだ。難しい内容だから積ん読しているというわけでは、必ずしもなかったのだ。
積ん読の罪悪感は、人生の有限性をめぐる哀感と表裏一体ということか。本を読むっていうのは贅沢なことだから、贅沢な風に本を読んで(←たぶんこれって覚悟と計画がいるけど)、死ぬまでは頑張って生きていきたいものだね。
数日前読み終えた中島敦『弟子』は、子路をはじめとする弟子たちの孔子への疑念の抱き方が、いちいち的を射ている感じがして、スリル満点だった。『論語』を読むとき、孔子自身が君子にふさわしい人物かどうか疑ってかかったほうが、たぶんリアルに読める気がする。中島敦だったら、次は「光と風と夢」が超気になってる。