ブッキッシュにも段階があって、「積ん読に罪悪感を感じる人」というのが時々いるけれど、まだまだ甘チャンだと言わざるを得ない。なぜって、積んどかないと読めないではないか。いつ、何が読みたくなるか、分からない。カレーが食べたいときにスパゲティーを食べることが残念であるように、読みたい本を、読みたい瞬間に読むのが、充実した読書生活というものであろう。
また、「読みたいが読みこなせない本」を積極的に積ん読しておくことは、読書生活において、ほとんど必須の心構えであると言える。本というのはインターテクスチャルな結節点なのであるから、ある本が読めないということは問題ではなくて、むしろその本が形成しているインターテクスチャルな網の目を意識するように、日々の読書生活を方向づけ、またさまざまな経験を積み重ねることが肝要である。「読みたいが読みこなせない本」の物質性は、そうした意識づけに欠かすことのできない構成要素であって、「本を読む」というのは本来、「世界に張り巡らされたインターテクスチャルな関係性を読む」ということとほとんど同義なのだから、その意味で、「積ん読」とは、読書の一環である。