日本人がヨーロッパについて理解を試みたり、研究したりする際の、意味とか必然性って、かなり深刻な問いに発展しうるわけだが、実際のところ知的言説のうちで、どのような了解が成立したり、競合したりしているのだろうか。某有名国語学者(物故者)は、「日本人として生まれてヨーロッパは理解できないから」という極めて分かりやすい理由で、自分の研究対象を定めたらしい。自分がひいきの某中国学者は、「世界史がわからずに日本史は分からない」という理性主義的スタンスを表明し、これはこれで非常に説得力がある。丸山眞男南原繁に「参考文献の過半は欧米文献で」と指導されたというが、丸山の日本理解は、果たしてまともだっただろうか(片山杜秀氏が「歴史意識の「古層」」論文の日本人論(無責任の体系)について、三井甲之なんかの原理日本社が、近代になって歪めて復古した「中今」概念を、たんにプラス評価からマイナス評価に転じただけと指摘していた記憶が…)。木田元氏は、プラトン以来の「超自然的原理」の特殊性、日本人にとっての分かりにくさを強調し、健康な若い人は哲学なんてやらない方が良いと、かなり屈折したことを言っていた気がする。
まあ、自分なりにはいろいろと思うんだけど、世の中にどういう「見識」が分布しているかを知るのは面白いかもしれない。そういえば異文化社会の認識について、ヴィトゲンシュタイン派の某学者が理論展開してたよな。
先日、酒見賢一の短編『ピュタゴラスの旅』『エピクテトス』をよんで、実に面白かった。前者は、ピュタゴラス神秘主義的要素を心理ドラマに仕立て、後者はストア派の精神を歴史的文脈のなかに甦らせて、とても秀逸。今日は想定外の仕事をさせられて、くたくたになった。