金谷武洋『日本語は亡びない』(ちくま新書)。サクッと読めて、かつ知的刺激は深い。日本語が亡びない免疫機能についての説明(用言におけるやまと言葉、基礎語彙の持続性、二モーラ、発音の音節加工)もおもしろいが、学校文法の誤りについてのコンパクトな解説が、やはり興味深い。
著者によると、学校文法の三大誤謬は「(1)西洋の文法概念で日本語には不要な「主語」を、明治以来使い続けていること、(2)平仮名に固執するため、真の音韻分析ができていないこと、及び(3)日本語本来の自動詞/他動詞/受身/使役の言語運用の体系が理解されていないこと」(83)であるという(構文論、音韻論、形態論)。
「構文論」での主張は、橋本進吉説に対する三上章、山田孝雄説に依拠するもので、「ハ」は「主題」を提示し、「ガ」は「主格」でもあるが、基本的に日本語に主語は不要であるというもの(主格は補語扱い)。つまり、日本語は述語一本立てで、名詞文(好きだ)、動詞文(笑った)、形容詞文(楽しい)の3種類しかないと理解できる。パルムターという学者によると、主語強要言語は、英語、フランス語、ドイツ語、オランダ語デンマーク語、スウェーデン語、ノルウェー語、ロマンシュ語の八つしかない(だからチョムスキー生成文法は少しも普遍的ではない)。日本語に主語があるという思い込みによって、さまざまな疑似論争も生じてきたが、これらはすべて誤りということになる。
「音韻論」においても、たとえば「飲む」の語幹は平仮名で「の」とするべきではなく、「nom-」としたほうが合理的であると主張されている(佐久間鼎理論)。現実の学校文法では、「来る」とか「する」には語幹がないというような歪みが放置されているが、これはナンセンス。また「形態論」でも、学校文法では〈「何を」という対象を必要としていれば他動詞〉などという区別法が示されているが、これも誤りで、じつは自動詞/他動詞は「ある」と「する・す(古語)」が基盤となっていると考えるとすっきりと理解できるし、そのうえで母音の「イ音」と「エ音」を変化させることで、「受身・使役」の使い分けもシンプルに理解可能である(目から鱗)。
いままでのは単なるメモだけど、重要なポイントは、SV式(主語強要)の西洋言語では、状況を高みから見下ろす「神の視点」としての主語が立ち上がり、これに対して日本語を含む世界の大多数の言語では、状況や自然を中心とする視点が支配的となるという指摘。あやしい比較文化論に直結する危険性も大きいけれど、なかなか刺激的な、検討に値する観点を含んでいると思えるのだが。