中島敦といえば「山月記」を高校二年で習うけれど、「木乃伊」とか「文字禍」とかの短編を読むと、「山月記」の李徴が虎に変身したことの意味について、あらためて考え込まされる。「山月記」は「中二病」的な李徴の有り様への(「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」)、一種の教訓として読めてしまうし、だから国語の教科書に取り入れられているのだろうけれど、中島敦の文学的営みの根幹に、自己が自己を失うこと(主体の失調)へのこだわりがあったことは、どうやら明らかであるように思われる。つまり、李徴の変身は、もっと切実に内在的に読み解かれる必要があるのではないか(李徴自身の自業自得と読むのではなしに)。
木乃伊」の主人公パリスカスは、アケメネス朝ペルシアの王カンビュセスとともにエジプトに侵入したとき、なぜかエジプト語を解する自分に気づく。エジプト王アメシスの墓所捜索隊に加わったパリスカスは、前世の自分であった木乃伊を発見し、その記憶を呼び起こすうちに、前世の木乃伊の自分がさらに前々世の木乃伊と向き合っている情景にたどり着き、ついに発狂してしまう。

彼はぞっとした。一体どうしたことだ。この恐ろしい一致は。怯れずに尚仔細に観るならば、前世に喚起した、その前々世の記憶の中に、恐らくは、前々々世の己の同じ姿を見るのではなかろうか。合せ鏡のように、無限に内に畳まれて行く不気味な記憶の連続が、無限に――目くるめくばかり無限に続いているのではないか?

SPECULA。これはぞっとするね。アッシリアのアッシュル=バニパル王がニネヴェにつくった図書館で、文字の精霊が現れるという「文字禍」もすばらしい。