「私益が公益に結びつく」とか「神の見えざる手」とか、要するに社会が自律的領域であって、それ自体として独自のメカニズムを備えているという認識は、日本ではどうなってたんだろうと、荻生狙来『政談』(岩波文庫)をパラパラめくっていると不思議になった。「作為の契機」とか言った人が有名だが、普通に読んでいるかぎり、田中角栄『列島改造論』的思いつきというか、反市場主義・反成長主義的な素朴な抽象論の色彩が濃い。とくに彼の「制度」理解は、conventionを一切否定するような、規範的なものなので、人生の教訓とかはそれなりに面白いんだけど、なんだかなぁという感じ。たとえば、ライプニッツ(最善説)を批判するヴォルテール(有神論)を批判するディドロみたいな、理神論的問題提起が浮上するような知的・宗教的土壌でないと、なかなか社会なんてものは発見されないのかもしれない。市場社会に着目した海保青陵、なんて天才もいるらしいけど。最近、ヴォルテールって偉いなと思ってたりする。「ぼくたちの庭を耕さなくては」。