気持ちわるい告白をしてみると、去年くらいまで、高学歴おしゃれ女子(と思われる人)のブログをウォッチしてたんだけど、そこに「付き合いたくない男子」についてのガールズトークなる話題があって、その結論が「童貞っぽい人とはつきあいたくない」というものだったので、個人的に衝撃を受け、考え込まされた。えっと、(笑)って付け足したほうがいいんだろうか、この文章。
その人は優しい人なので(そのように思われるので)、ちゃんと「童貞」の人へのフォローがあり、この「結論」は「童貞」についてのものではなく、現実に「童貞」であるかどうかにかかわらず「童貞っぽく見える人」についてのものである、との注釈がなされていたんだが、これでますます深く考え込まされたことは言うまでもない。
それで自分が思い出したのは、みうらじゅん伊集院光が出した『D.T.』という本で、この本が出版された当時の自分は、「童貞を無害化されたキャラに仕立て上げるなんて、童貞に失礼ではないか。本当に童貞の価値を復権したいのであれば、このような手段は誤りなのではないか、童貞への裏切り行為ではないか」とまさに童貞っぽい感想を抱きつつ、ひそかに憤慨していたわけであるが、これって完全に的外れな感想だったんじゃないかとちょっと思ったのは、以下のような理由による。
というのは、彼らの童貞復権言説って、究極的には、冒頭のような高学歴おしゃれ女子に向けられているとも考えられるわけで、そのための有効な戦略として「無害化」し「キャラ化」することは不可欠なプロセスであり、むしろ称揚されるべき啓蒙活動のはずだからである。
なんでこんなことを思い出し、考えたかというと、自分は「ベタなプラグマティズム」が嫌いで、「ヨーロッパ存在論の否定としてのプラグマティズム」が好きなので、つまりそれって、「非童貞」じゃなくて「童貞の心をもった非童貞」が好きってことじゃないか、と思ったせいである。先日、慶応SFC的なるものに触れて、以上のような珍妙な想念が脳裏を駆けめぐっている。(ちなみに自分は浪人生のとき、慶応軒並み受験ツアーを企画して、受けられるだけ受けたんだけど、SFCだけは休憩日にしました。)