ソラニン』がひよわでセンチメンタルな青春映画であるとしても、未成熟だとか大人に成りきれていないだとか高みから批判してばかりではいられないのは、やっぱりあれが日本社会のある種の自画像になっているからなんだろうなと、広井良典『コミュニティを問いなおす』(ちくま新書)を読んで、ちょっと思った。
都市型コミュニティにおける「市民」とは、成員の、普遍的なルールの受容を前提に成立する。「市民」だからといって成員資格が無限定に拡散するわけではなく、「市民の外部」がちゃんと存在するのである。日本ではこの普遍性が成立しないので、農村型コミュニティが崩壊したあと「場の空気」に依存する脆弱な人間関係が支配的となり、「社会的孤立」の国際指標が突出するまでにいたってしまった。普遍性(神)が成立しないので、独我論的な「他者と自我の非対称性」の感覚が生み出されやすく(逆に神が存在すると、無限遠点から観測した個人と他者は相同的になる)、自分の周囲の、心地良いはずの「空気」のまさにその只中に、不安感と閉塞感とを個人にもたらす『NANA』的心理メカニズムが出現することになる。ましてや自分のサークルの外部なんて、なんらコミットすべきものの見つからない、苦痛で単調な風景でしかないわけだ。
NHKでやってたSandelのハーバード講義を視聴。「日韓併合 伊藤博文とアンジュングン」で景福宮とか安重根銅像が映っていたので感動。安重根両班の知的エリートで日本に対して時勢と共に変化する両義的感情を抱いていたらしいこと、伊藤博文韓国併合も独立へとむけたパターナリスティックな、ゆえに両義的な政治的意味合いを含むものであったこと、など。さて、ちゃっちゃと終わらせて、早く寝ないと。