風邪で起き上がると咳が出るので、仕方なく寝転びながら、橋本治「リア家の人々」(『新潮』4月号)を読んでいたのだが、これは非常に読みごたえがあった。ひとつの家族のなかに多重的に織り込まれた、世代間の意識の断絶(と連続)を細密に炙り出しつつ、1968年をクライマックスに据えた日本近代史がダイナミックに物語られる。もはや絶滅寸前の昭和の家族の雰囲気、家族関係特有の「ああ、これはあるよね」という生理的感覚が甦った(何もしない父親、うるさい姉!)。
主人公(文三)が帝大の学生時代、「She loved him」「He loved her」「We love our nation」なら分かるのだが、「I love you」だけは分からない、ただ夏目漱石がこれを「“月がきれいですね”とでも訳すべし」と言っていたのに感心した、という条りがあって、これがけっこうポイントなんじゃないかと思った。東大を出て文部官僚となった主人公(といってよいのか微妙だと感じさせる日本的家族の描写なわけだが…)は、ただ時勢の趣くままに生きるだけで、つまり彼は自身の存在を根底から問うてくるような他者の存在(“I loved you”の他者)に出会わない。これは主人公だけではなく、登場人物の誰もがそうなのである。誰も「個」として、「他者」にも「時勢」にも向き合わず、むしろ状況に包み込まれるようにして(あるいは流されるようにして)、他人事のように日々を送っているのである。
だから、自分の心理的満足を満たしてくれる「時勢(=状況)」に変化が生じ、この「時勢(=状況)」をめぐって人々が嘆いたり、打算的になってみたり、うろたえたりしだすと、「ああこれは醜悪だな」と思うような事態に至ってしまう。状況が思うようなかたちで自分を包み込んでくれないと、茫然自失となったり、真率すぎる心情の吐露に走ったり、自分自身の独善を剥きだしにしたり、あるいはただ寂しく諦めの境地に自分を馴れさせようと試みたりする。
ノンセクト・ラジカル全共闘の描写は、なかなか複雑で、分かりづらい。

それはもう「左翼」という限定さえをも無効にする。それはただ「過激(ラジカル)」で、綻びを露呈させる「秩序」という体制へ向かって行く。批判の矢を向けられた「秩序」の側には、自身の綻びを繕ろう策がない――「秩序は秩序として既にある」と思う者達は、「この秩序に綻びがある」という前提にさえ立たない。その立たないあり方こそが、欺瞞を隠蔽する「体質」なのである。(129)

このような問題意識に立っている限りで、ある意味、理論上は「時勢への正面からの対抗」の言説となりえているのだが、しかしその行動様式は完璧に日本的近代の反復でしかないようにも映る。「家族内で露呈する世代対立」のように、ひとつの時代思潮なり空気なりが、別のそれと衝突しているだけだった、というような。
「そこにある状況」として絶対化される「家」、その中心をしだいにテレビが占拠していく様は、クリシェかもしれないが、なるほどなという感じ。あと日大闘争が、大学闘争を分かりやすくした、というような事が書かれていて、これは面白かった。著者の歴史理解に馴染みがあれば、たぶんもっとスッキリ理解できた気がするので、誰かに解説してほしいですね。あと関係ないけど、向田邦子って、生きてたらどんな感じになってたんだろうか。