ネット上で公的な事柄を話題にしたり、議論を戦わせる場合において、氏名や属性を公表すべきである、と主張する人がたまにいるが、なぜそのようなことが必要なのかが前々から分からない。
「(1)相手の属性を理解しなければ、議論が成立しない」と考えているのだとしたら、その人はロジックを信用しない人なのだから、「議論の要件」を云々する資格をそもそも持ち合わせていないと考えられる。
あるいは「(2)公的な情報を開示する/させることで、議論の逃げ場を封印する」ことが目的なのかもしれないが、しかしこの場合、「知的廉直性にたいする不信」という問題が浮上する。要するに、「あなた自身は匿名で議論すると、簡単に逃げを打っちゃう人なんですか?」ってことである。
そもそも議論は勝つためにやるのではなくて、負けても新たな認識が得られればそれでOKなのだから、究極的に言って「知的廉直性」とは、議論相手のためではなく、自分自身のために存在するのである。「匿名性を隠れ蓑にして逃げるなんて卑怯だ」と仮に考えるのだとしたら、それは自分自身にとって議論が何のために必要であるかを見失っている証拠であって、本来そんなことは本筋ではないと思い至るべきである。「卑怯か卑怯でないか」ではなく、「議論が生産的かそうでないか」が、議論の善し悪しの基準である。
以上とは別に、「(3)私的な事柄を人目に触れる場所でダラダラ書いてるんじゃねぇ。便所の落書きじゃあるまいし」という批判の可能性もある。しかしこれは「不快だったら見なければすむ」わけだし、「私的なことをダラダラ書く権利はなぜ認められないのか」という反論もすぐに思い浮かぶ。たしかに「公的領域は建前ばかり、私的領域は情緒垂れ流し」という日本特有の問題状況は指摘できるし、ネットがその反映である可能性もあるけれど、この問題を改善しようと思って「ネットにおける氏名公表」がその処方箋たりうると思い込むとしたら、それは公共的意義に乏しい単細胞的で幼稚な提案にすぎないだろう。知的風土の改革には、それにふさわしい改革案がべつに存在するはずである。
って、なんでこんなこと書いてるんだっけ?このブログは閲覧者がたぶん5人くらいだと思うので、公的だろうが私的だろうが、どうだっていいんだけどね。存在してないに等しいので。