小沢問題。政局的には世論の動向が問題だが、現時点では、小沢と民主党の分が悪いことは世論調査を見れば明らか。ただしメディア上で「検察ファッショ」の批判言説がないわけではなく、これが今後どのように影響を及ぼしうるかが注目点。西松建設の不起訴の例があるし、私自身は世論が逆方向に振れる可能性はあると考えているが、shou氏、tantan氏などはそこまでの判断ではないみたい。たしかに小沢悪玉論は情動レベルで根強いからね。
政局を離れて考えると、今回の問題の本質は、第一にメディア問題であり、第二にデモクラシー問題だろう。こないだ夕方の8チャンネルで、安藤優子アナウンサーが「検察リークはあるのですか?」とヤメ検に尋ねていて噴飯した。ヤメ検は当然「ありえない」と答えていたが、検察リーク問題の一方の当事者はメディアなのだから、この質問自体、意味がわからない。頭が悪いのか、ヒトを舐めきった悪党なのかは知らないが、マス・メディアは滅びるべき。あとデモクラシー問題というのは、準司法的役割を握っている検察が、国会議員の逮捕まで踏み込む権限を、この国の民主政のあり方から考えてどう評価するのか、という問題だ。デモクラシーには「法の支配」による制限が現実的に加えられており、それ自体は必要なことだと思うが、しかし「法の支配」の理念を貫徹させる制度的条件が成熟しているとは、今のところ考えられない。違憲審査権を担っている裁判所をそんなにナイーヴに信用することができないのは、デモクラシーを支える民度の未成熟(civic republicanismの不徹底)と、その信頼性の薄さにおいて同等なのではないか。バカなエリートか、バカな大衆か、の二者択一ならば、私としてはエリートの方を選ぼうという気は起こらない。特捜検察の立件を、本当に裁判所は良心のみに基づいて裁決するだろうか、いや裁決すまい(反語)。
亀井俊介ハックルベリー・フィンのアメリカ 「自由」はどこにあるか』(中公新書)を読んで、感動。D・H・ロレンスアメリカ論の亀井氏によるまとめ。

アメリカ人はただヨーロッパの「古くさい権威」からの離脱を求めてアメリカ大陸へ移ってきた。だが知らぬ間にヨーロッパ文明を背負ってきてもいて、それに反逆もするが、もやもやしながらそれに服従してもいる。「自由」とか「デモクラシー」とかと盛んにいっているが、自己の深淵な「内なる声」に従ってそういうのではない。意識の上でのヨーロッパへの反撥からそういうだけだ。そして、あらゆる大陸には、それに固有の偉大な「土地に宿る精神」the spirit of place(人によっては「地霊」とも訳している)があるものだが、本当はヨーロッパに縛られている彼らは、それをとらえそこなってしまった。そのため彼らは、「自分が真に積極的にそうありたいと思うもの」をまだ見出しえないでいる。その意味で、彼らは真に「自由」な存在からは程遠く、アメリカ人の魂の底にはいつも「黒い不安」a dark suspenseがある。……(13−14)

マーク・トゥエイン(「水深二尋」)自身、西部的価値観(自然、自由、野生)と東部的価値観(文明、秩序、教養)の間でsuspendされた人生を送ったが、トム・ソーヤの場合、南北戦争後の「金めっき時代」(Gilded Age、1865頃〜1890頃)の東部的respectabilityの生活様式のなかで、「海賊ごっこ」をしていただけだった。どれだけ羽目を外しても、帰るべき家は秘かに確保されていたのだ。しかし野生児ハックルベリー・フィンには、「自分が真に積極的にそうありたいと思うもの」についての、このような「ごまかし」は存在せず、また存在できない(家がないから)。ごまかせないからこそ、a dark suspenseにより先鋭に立ち向かうことになるのが、『ハックルベリー・フィンの冒険』というわけだ。ということで、原書&翻訳書を買ってきてしまった。