中央公論』を立ち読み。三浦雅士レヴィ=ストロース追悼記事はデリダの批判をわりと踏襲するかたちで、構造の規則性の位置づけをめぐるレヴィの「絶句」、とかなんとか書かれてたのだが、これって適切な表現なんだろうか?と思った。あと上杉隆のレポートによると、平野官房長官ってリアルに使えないらしい。蓮實×浅田対談は興味深かったが、ふと連想したのは「決断主義」(宇野)ってやつで、じつは「決断しない」ことも「決断」のひとつであるとすれば、この概念の有効性は、90年代以降のサブカルを整理する図式にはなりえても、思想的な動態をとらえる意味では機能しないのではないか。というほど真面目に考えたわけじゃないんだが、それこそ分割地農民の表象不可能性とともに『ブリュメール18日』では、「「終わりのない恐怖より、いっそ恐怖で終わるほうがいい!」と狂ったように息巻いた」ブルジョワのメンタリティの指摘があって(155)、これって「決断主義」だけど、それ自体笑劇のひとつとして描かれている。退くも地獄(笑劇)、進むも地獄(笑劇)。愚鈍ってなあに?「投瓶通信」的ツイッターだったら、ほんとの「つぶやき」だな。