宮崎市定『中国の歴史9 清帝国の繁栄』(中公文庫)。宮崎の清代史研究は、1938年夏に開設された近衛文麿内閣直属の国策機関、東亜研究所への参加が機縁であったという。少数の異民族が、漢民族をいかによく統治しうるか、という問題意識の実践性について思い巡らすと、なかなか生々しいものがある。

雍正帝はかたく天命を信じた。清朝こそは天の命令を受けて中国の人民を支配すべく義務づけられたものだという信念である。だからもし中国人の中に、単に清朝は異民族だからという理由だけで反感や不満をもつ者があれば、それは天命を理解しない不届きな乱民だということになる。雍正帝はそういう者に対しては容赦なく弾圧を加えた。しかし一方、天が清朝に大命を下したのは、とくに清朝を庇護したためではない。清朝こそ中国人民を平穏に支配する最適任者だと見込んだからである。とすれば清朝の天子たるもの、身を粉にしてもこの崇高なる天命の期待するところに答えなければならぬ。それが同時に清朝の命脈を長久ならしめ、祖先の恩に報ずるゆえんにもなるのである。
こういう立場は清朝に限ったことでなく、歴代の中国王朝に共通した立場である。しかし清朝初期の諸天子、なかんずく雍正帝ほど強烈に自身のおかれている立場を理解し、粉骨砕身のひたむきの努力を傾注した天子は少ない。雍正帝にそれができたということは、やはりかれが満洲から出てきた素朴な異民族であった点に求められる。すべて新興の民族には、老成した文明国民にみられないヴァイタリティがある。かれらはいわば自然世界の延長であって、未開で粗野ではあるが、人為的な不自然にゆがめられず、ゆがめられた人生経験のために悪ずれしない誠実さをもっていた。雍正帝はまさに当時の満洲民族の最も良い面を代表した人物であったといえる。(131−132)

メタ・メッセージを想像しながら読み込むと、なかなか凄い文章である。軍隊規模の見栄えを確保するための辮髪令も、創氏改名の趣のある被支配民族統治政策だが、三藩の乱の際の帰趨が面白い。

呉三桂のスローガンが明朝復興を持ち出したのは、はなはだまずい戦術であったが、それにもましてかれにとって痛手であったのは、かれおよびかれの部下が清朝の辮髪令に従って頭髪を満洲風にあらためていた事実である。この事実はかれらが完全に清朝を自己の君主と仰ぎ、その主権を認めて臣として仕えていたことを証明する。……呉三桂が明の一族永明王を……捕虜とし、清朝に献じて殺させたのは天下周知の事実である。それにもかかわらず、明の復興など言い出せば、かれが犯した二重の不忠、さきには明に叛き、いままた清に叛こうとしている叛服常ない無節操をみずから広告する結果になるのである。しかもその最も動かしがたい証拠を、頭上の辮髪が示しているのだ。……
 はたして呉三桂の呼びかけは、広東・福建をのぞく他の地方でははなはだ効力が薄かった。いったい呉三桂はいよいよ旗揚げの決心をしてから、それを宣言するまでに、自己の頭上の髪をのばして束髪にするため、数ヶ月の時間を要し、その間空しく時日を費やしたので、その計画がいつか漏洩して清朝にも準備の暇を与えることになった。(98−99)