『はじめの一歩』(TVアニメ版、第一期)を思わず見終えてしまったのだが、これは傑作アニメである。何が素晴らしいかと言えば、大卒の人間がほとんど出てこないところだ(ボクシングマガジンの記者とセクシーな女医さんくらい)。幕之内一歩が、釣り船屋を営む母子家庭の少年という設定もすばらしい。一歩が惚れている間柴クミちゃんが、パン屋と工場でバイトをしたあと、看護婦になるというのもステキだ。天才ボクサー鷹村が下品でエロエロ大王なのもいい。
何が言いたいかというと、この作品は明らかに一歩のビルドゥングスロマンなのであるが、秀逸なのは「アイデンティティの危機」とか「自己の探究」などの問いがほとんど浮上しない、ということなのである。むしろ、一番苦しいときに信じられるのは自分以外に存在しない。このことは自明とされている。
たとえば、大正教養主義の作品である吉川英治宮本武蔵』などでは、武蔵は沢庵和尚とか吉野太夫とかにオチョクられて「自分とは何か?」という問いと向き合わざるをえなくなる。そこには自我の揺れ動きがある(三十三間堂で、一乗寺下り松で、武蔵は「なぜ自分が強さを求めるのか?」というメタな問いにとらわれる)。しかし、いじめられッ子だった一歩はやはり形而上学的な問いに囚われているのだが、それは「強いって何ですか?」という問いであって、そこでは「強いとは何か?=ボクシングを一生懸命やればそれが分かる」という図式が前提されている。自己を問いなおしている暇があれば、「ロードワークをしてこい!」という世界なのだ。
一歩の強さが、鴨川ボクシングジム会長への過剰なまでに愚直なコミットメントにあることは明らかだ。だから『はじめの一歩』は、愚直&泥臭さ全面肯定イデオロギーのアニメなのである。ヴォルグ・ザンギエフ戦での感覚失調シーンもすばらしいが、ラストの千堂戦でミックス・アップした一歩が、鴨川会長の教えから自立する場面は、ビルドゥングスロマンの新たな形式を教えてくれるようで、ほんとうに感動的だ。いつのまにか、自分で、自分の一歩を歩み始める、というわけだ。
エヴァの展開に見られるように(あるいは『デスノート』や『バトル・ロワイヤル』のように)、「消極的ニヒリズムから能動的ニヒリズムへ」という「思想的な解」しかない、というのでは貧しい。やっぱり『はじめの一歩』がわれわれの美学であるべきだ。
http://www.youtube.com/watch?v=VM84NMbYfrM&playnext=1&list=PLB3CFE3162745AA65

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JBLを観戦。日立サンロッカーズvsリンク栃木ブレックス。代々木第2体育館の内部空間はなかなか良い。第3ピリオド終了時点で「41対38」の超ロースコアゲーム。本当は同点だったはずなのだが、ブザービーターが奇跡的に決まり、日立が3ポイントリード。最終ピリオドでは、リンク栃木・川村の外からのシュートが決まり、65−61でリンク栃木が勝利。最後まで目が離せない良い試合だった。田臥はやっぱり天才的な勘の良さだが、並里(37番)というガードが身体能力が高くて、すばらしかった。日立のスミスが得点能力の高い選手なので、栃木は意図的にロースコアの展開に持っていったのかもしれない。
http://www.jbl.or.jp/schedule/2010-2011/boxscore/?g=T2010002G077&t=T2010002