ツイッターという場において、話し言葉と書き言葉のどちらが優勢といえるだろうか、などと思って(嘘)、マクルーハングーテンベルクの銀河系』(みすず書房)を本棚から引っ張り出してみたのだが、妖しさ満点な部分も含めて、やっぱりこの本は名著である。『リア王』のコーデリアは比率均衡を保った中世的なマトモ人間だったのに対して、二人の姉、ゴネリルとリーガンは新しい専門主義・競争主義を身に帯びており、つまりエリザベス朝時代とは、古代ギリシアホメロスからプラトンへの道をたどったのと同じ移行期であって、それはまさに電気時代を迎える我々の時代と同様なのだ。という導入がすでにあまりにも見事なのであるが、それにしてもアフリカ人の描き方はひどすぎる。アフリカ人は映画を見ることができない(アフリカ人が初めて映画を見たとき、そこに映っているニワトリしか認識できなかった)。チャップリンだったら分かる。でも、アフリカ人は映画は分からなくても、テレビだったら分かったはずだ、という議論はすでにアタマおかしい感じだけど、しかしこの映画とテレビの対比は、全然わからないよね。

当時テレビが使用できたとすると、ウィルソンはアフリカ人たちが映画よりもはるかに容易にテレビに親しむのを見て驚いたに相違ない。なぜならば映画では観客はカメラであるが、非文字社会の人間は自分の眼をカメラのようには使えない。だがテレビでは、観客はスクリーンなのだ。そしてテレビは二次元的であり、その触知的輪郭(tactile contours)においては彫刻的である。テレビは語りのための媒体ではない。テレビは視覚的というよりも聴覚触覚的である。これがテレビが感情移入を惹きおこす理由であり、テレビ映像に最適の様式がマンガである理由である。(64)

怪しいが、表音文字表意文字を対照させて中国を論じているのを見ると、白川静詩経』(中公新書)が考えていたことは、ほとんどマクルーハンと同じであることが分かる。
気分わるし。でも気分悪いくらいでちょうどいいと思う。