水野和夫・萱野稔人『超マクロ展望 世界経済の真実』(集英社新書)。時間を割くのがもったいないので、超速で読んだのだが、間違いだらけ。ただしサブプライム以降の、人文系・マルクス主義系の経済観・資本主義観を確認するうえでは有用。ウォーラーステイン読んで世界経済を語っちゃう、みたいなのは陥りがちな罠であるし、自分がこれまで陥ったことがないとは言わないが、基本的にうんこである。人文系だったら、とりあえずヒュームの社会経済論集のエッセイでいいから読めよ、と言いたい。「交易条件のマクロな趨勢」とか見せられてダマされる読者は多いだろうけれど、重商主義は(ヒューム、アダム・スミスの系譜をたどって)リカードがカンペキに否定したのである。「交易条件が悪化して70年代に変動相場制が導入されるなど金融市場化がすすんだ」、それゆえ「国民国家を前提とした従来の経済学モデルは失効した」などとあたまのわるい結論を導き、その命題をもってリフレ派を否定しているのは、もはや愚かとしか言いようがない。「変動相場制+国際資本移動の自由」であればこそ、政府の金融政策が有効なのである(マンデル・フレミング・モデル)。「インフレは貨幣現象だというテーゼは国民国家経済の枠内でしか成立しない」(P.192)。ほんとにそうだったら、お金を刷るだけ刷って財政赤字が解消するのは前にも書いたとおり(バーナンキ背理法)。
ま、ケチョンケチョンに書いてはみたものの、水野和夫にも、ましてや萱野稔人にも当然、はじめから1ミリの期待も抱いてない(あくまで敵情視察が目的)。
ついでに思い出したのでメモっておくと、こないだ講談社のPR誌『本』の東氏連載をパラパラみてて、「動物的で功利主義的な秩序により人間的でカント主義的な秩序を枠づける」(p.40)という記述を発見したんだが、ショッピングモールがどうとか言ってたし、これはランシエール(柄谷氏もご執心)が元ネタなのではないかと思ったのだが、どうだろう。柄谷はくじ引きにこだわってたが、制度としての民主主義が本質的に寡頭制の変形バージョンであって、公的制度に必ずしも反映されない感性的秩序の可能性を、情報技術の発展と結びつけて論じたらどうなるか、という発想(ではないか)。情報技術の発展って、ニコニコ動画のことなんだけど(苦笑)。