(すこし前だが)古谷実『ヒメアノール』を読了。殺人鬼の森田が抱え込んだ「悪」は、その徹底した極限性のゆえに、〈社会〉の側の自明性の枠を超える。〈社会〉はもはや、そのような悪を識別&捕捉できない。〈社会〉のスキマに自覚不能な形で悪が滑り込む。
殺人鬼の森田は一種のビョーキである。彼の異様さ(エキセントリック)は、彼自身にも規定不能なものであって、脱中心的(エキセントリック)である。脱中心的な、分裂的な、錯乱的な、そうした実存の有り様は、〈社会〉が前提とする世界観とすれ違う。
森田の周りには、突然モテだすモテない男達と、森田に殺されていく人達、の2種類の人間が現れる。いずれもしばしば無自覚な形で悪と間近に隣り合って、生の充実を体験するというのが、なかなか恐ろしい(とくに殺されていく人達に関して)。病気のなかに健康があり、健康のなかに病気がある(笑)(ニーチェ、病者の光学)。〈社会〉も不連続な断絶を孕みつつ、強度を獲得しうるか?(生成としての歴史の可能性)