ヴィム・ヴェンダース『ベルリン・天使の詩』(1987)

Der Himmel über Berlin 脚本 ペーター・ハントケ、撮影 アンリ・アルカン、音楽 ユルゲン・クニーパー、出演ブルーノ・ガンツ(天使ダミエル)、ソルヴェーグ・ドマルタン(マリオン)、クルト・ボイス(ホメーロス)、オットー・サンダー(天使カシエル)、ピーター・フォークピーター・フォーク:本人役で登場)、ニック・ケイヴ
守護天使ダミエル(ブルーノ・ガンツ)は、長い歴史を天使として見届け、人間のあらゆるドラマを寄り添うように見守った。だが親友カシエル(オットー・サンダー)に永遠の生命を放棄し、人間になりたい、と打ち明ける。やがてサーカスの舞姫マリオン(ソルヴェーグ・ドマルタン)に想いを寄せるダミエルはついに「壁」を境に東西に隔てられた街「ベルリン」に降り立つ。(wiki

天使には時間がなく、すべてのことは一瞬のうちに凝縮されている。そして人間も一瞬のうちにすべてが凝縮されるような永遠を夢見て生きるのかもしれない(幼年時代のベルリン、ドイツ映画)。そのような瞬間は、人間の有限性が融解するような瞬間であり、逆説的なことではあるが、つまりは「生命(=有限性)の否定」としての死に接近する瞬間でもある。子ども、廃墟、動物、サーカス、老人などは、死によって永遠と親しい関係を結んでいる存在として現れているし、さらに死とは個人にとっての「他なるもの」であるのだから、他なるもののとのありえない結びつきこそが(時間的結びつき、空間的結びつき、異言語の混在…)、永遠を垣間見させるものとして重要な意味をもったりする(アレゴリー)。
そのうえで「死」なり「永遠」なりと、どのような関係を結んでいくかが、(それが両義的な意味合いをもつだけに)倫理的な問いとして浮上する。死は永遠の生を否定する存在として、逃れるべき「強迫」として現れることもあるし(資本主義、アメリカ、ロック)、自他未分化な中での「甘美」でもありうるし(野蛮な近代戦争)、人を絶望させる「ニヒリズム」をもたらすものでもある(孤独、自殺)。死が野蛮にも絶望にも陥ることなしに、どのように希望となりうるかについて(=ハッピーな永劫回帰思想とは具体的にどんなものか?)、けっこうリアルに考えた映画なんじゃないか。世界が廃墟だというリアリティは、1980年代という年代を考えても、なかなか面白い意味をもつかも。