幸福の黄色いハンカチ』で、高倉健桃井かおり武田鉄矢らの生きざまが極度に不器用なのを見て、癒された。やくざな性分に生まれてしまった、と、高倉健が自分を呪う場面がいい。癒される、という反応は、自分が弱っている証拠でもあるが、この映画はやっぱり名作だと思うな。たぶん10年以上ぶりの再見である。
話題に出たことで今日考えていたのは、高校生活が楽しかったり、充実していたりすることの、必要性とか、重要性とかが、そりゃもちろん大事なのは決まっているけれど、どのくらい不可欠であるものなのか(=それが欠けていることの致命性がどれほどのものなのか)、自分にはいまいち腑に落ちないということである。自分が通っていた高校のいびつさ故であろうか。それとも集団に対する自分に特有の感受性ゆえだろうか。特権的な青春時代、みたいな観念は、少なくとも高校時代には思い当たらないけど、これって「欠落」だと理解すべきなのかなぁ?かりにすさんだ集団への帰属体験であっても、そこから学ぶこともあるだろう、というのもある。