「歴史に学ぶ」とか「歴史とは過去と現在との対話です」とか、よく言うけれど、歴史を学ぶ意義ってのはまったくもって自明ではないと思うね。歴史的にあらゆる民族が「伝説」と「お伽噺」を持っている、どうやらこれは人間にとって本質的なことであるらしいとは、小沢健二のパパがこのまえテレビで主張していたことであるが、この場合、「伝説」と「歴史」とは大きくちがっている。「歴史に学ぶ」という際の「歴史」には客観性が前提とされるけれど、「伝説」は客観性−主観性の評価軸とは別のところに存在している。やはり「歴史」という言葉には、ドイツ歴史学派的な近代的意識(と裏返しのロマン主義的意識、と言った方が適切か)が刻印されているのだと思われる。
客観的な事実の時系列的羅列は、それ自体としては、(「伝説」とは反対に)人間のアイデンティティを作りあげるものではない。歴史から学ぶなどと言ってみたところで、たいていは脆弱な自己の基盤の埋め合わせのように、安っぽい英雄譚にそって「物語」を捏造しているにすぎない。そこに「対話」が成立する可能性というのは、きわめて限られている。アイロニカルに言うならば、「歴史から学べること」は「人間は歴史などから学ぶことはできない」という事実にほかならない、と考えることだってできる。
だからといって「歴史からは何も学べない」と言いたいわけじゃなくて、「歴史から学ぶ」というのは、軽く口にされる以上に、ハードルが高いんじゃないか、という話である。別に万人が歴史から学ぶ必要がないし、そもそもそれは不可能だ(これが近代というもの)。個人的には、人間の営みのちっぽけさと多様性が感じられるように歴史に接することができたら、大成功なんじゃないかと思う。上から目線な論評だが(←いつものことですね)。
苦しい作業のせいで、脳にダメージを受けて倒れていたが、夕方、復活。最低限のノルマは進めたから、よしとする。吉本新喜劇、やってた。