本棚に若桑みどりマニエリスム芸術論』(ちくま学芸文庫)があったので、読んでみると、いろいろ腑に落ちた。ルネサンス絵画として完成された、ヴァザーリの挙げる5つの原理、「規範」(形体の構成上の調和)「秩序」(構造の手法と様式の統一)「比例」(空間内における形の遠近比例)「ディゼーニョ」(自然模倣の技術)「マニエラ」(手法、手練)は、それぞれ「数的比例」を基本としているが、16世紀絵画はこの原理を厳格に踏襲するとともに、さらに二つの理念を付加することで、マニエリスムと呼ばれる美的展開を示すことになった。それは「優美論」と「ディゼーニョ論」であり、文芸アカデミーの院長ヴァルキは、「数的比例」は「美」であるが低次の美であり、一方で「内なるディゼーニョ」に従った高次の美、「数的な比例にまさる優美」が存在すると言っている。この「美」と「優美」の対比(「アリストテレス的美」と「プラトン的美」)は、ヴァザーリも継承するものであるけれど、もともとはダ・ヴィンチやデューラーに対するミケランジェロ天地創造!)の考え方であり、内的な確信(内なるディゼーニョ)があれば、必ずしも規則性に拘束されない調和が存在するという、カント哲学に対するロマン主義のような発想である。美術史的には世紀末の頽廃美術と類比されることが多かったらしい。
といっても、ここでポイントになっているのは、ミケランジェロ自身が影響を受けた新プラトン主義の思潮であり、これが「目に見えないもの」の契機をルネサンス絵画に持ち込んだのである。例えばボッティチェリ「ヴィーナス」「春」は、「天上のヴィーナス」と「地上のヴィーナス」に対応しており、これは新プラトン主義における愛の理論をそのまま形象化したものだといわれる。愛は人々を永遠へと引き上げるものでありながら(「高次の愛」)、同時に愛によって人間は盲目になりもする(「低次の愛」)。愛には二つの側面があり、人間はこのように「神的なもの」と「地上的なもの」との間で引き裂かれて存在していて、だから「美」(低次)と「優美」(高次)の対立を設け、「目に見えない価値」を絵画に導入したマニエリスムは、ルネサンス絵画に新プラトン主義を接ぎ木した試みであると見ることができる(ここらへん自分勝手にまとめすぎてるけど)。
で、反宗教改革すなわちトリエント公会議体制と、サッコ・ディ・ローマ(1527)以後の絶対王政への移行プロセスのなかで、バロックが出てきて、基本的にこれがマニエリスムを否定する言説を支配することになるわけだが、このバロック中心主義的美術史理解をいったん脇に置いたときに、マニエリスムをどう理解しなおせるかっていうのが、まだ読んでいない先に書いてあることだろうと推測する。
映画の話。ナタリー・ポートマンを見てると、演技の善し悪しと関係なく「頑張っててえらいね!」と思ってしまうのは、なぜだろうか。 U2のボノの歌声を久しぶりに聴いた。