昨日話してたことで、「子どもの言語能力、思考能力、他者に対する想像力を高めていくためには、学校教育の現場でもっとディベート教育を取り入れた方が良いのではないか?」という話題があったのだが、自分はかなり否定的な意見を述べた。(1)ディベート教育で知的に深みのある議論が可能なのはもとからデキる生徒だけだし、(2)大多数の生徒にとっては、表面的な議論に終始して何を習得したかがあやふやなまま終わる危険が大きい。(3)そもそも教員のリソースが不足していると考えられるし、(4)従来からの「生活指導」と教育目的が重なっているのだから、両者の関連性をさらに熟考しておく必要もあるだろう。また(5)自主的、教科横断的にモノを考えることが目的なのだとしたら、従来の教科教育の枠内でもそれが目指されるのが本当だし(それは実際めざされている)、(6)そもそも教科教育が不当に軽視されている可能性があって、ディベート教育は何が習得されたかが明確でないぶん知識の体系性に乏しく、学習成果の蓄積性に欠けるリスクも肝に銘じておくべきだ。(7)教科教育における「動機づけ」の不足がディベート教育の主張につながっているとも考えられるが、内発的動機を重視してカリキュラムを組み立てることの問題もあるわけで、教科教育が専門知にそって体系化されている以上、内発性とは無関連に決定されるべき学習内容というものも否定できない。
ぶっちゃけていえば、「自分の主張を論理的に相手に伝達し、相手の主張を自分の感情とは別に論理的に受け入れる」という、民主主義社会における最重要課題は、日本社会の現状を鑑みれば、実はハードルが高すぎる。さらにぶっちゃけていえば、これって日本社会以外の社会にとってもハードルが高すぎて、本当は人間の脳って、そもそもそういう風には出来ていないんじゃないかと、自分は思っている。ジュリアン・ジェインズの「二分心」じゃないが、文字文化が到来する以前のギリシャ社会では、人々はホメロスの歌にミメーシスして生きていたのであり、文字とは現象の客観的理解のための道具ではなく呪術的形象であることを明らかにしたのは、殷の甲骨文字を分析した白川漢字学の成果であるわけだ(だから漢字はラスコーの壁画みたいなもんだろう)。現代のメディア社会においてなお、人々の行動様式は太古の宗教的振る舞いをなぞる(リップマン『世論』)。「論理操作能力」を金科玉条にするインテリベースの議論は、自分は疑ってかかっているのである。