「社会に出たら答えのない問題ばかりだ」「ペーパーテストの知識なんて役に立たない」というクリシェがあり、体験学習とか討論とかを重んじる風潮が存在するわけだが、もし社会において「答えのない問題」ばかりに直面している人がいるとするなら、その人は問題解決能力がない(=無能)と、スティグマ化されるに決まっている。
このばあい「問題解決能力」とは、(1)「問題処理能力」と(2)「問題(課題)設定能力」とに区分できる。答えはあるのに解答に到達するための処理能力が欠如しているケースが(1)。問題設定がまずいので、何を解決すべきかが決定不能になっているケースが(2)。いずれも、ペーパーテスト型知性と親和的な能力があれば、(原理的には)解消可能になるはずである。
もちろん「答えのない問題」というのは存在する。「生きる意味」みたいに、究極目的すぎて、そもそも「唯一の解決をあたえる必要がない問題」である。これへの対処法は、最終的には「広い意味での決断」をする以外にない。「熟慮をへた決断」にせよ、「美学的決断」、「決断しないという決断」にせよ、すくなくとも最終的に論理を飛躍することが(価値に依拠することが)、必然的に要請されるわけだ。ところで、この種の「飛躍」能力や「決断」能力は、「社会で生き抜く能力(=生きる力)」とどれほど、どのように相関するだろうか。しかもそれって、体験学習でどこまで養成できる能力だろうか(できるかもしれないが、なかなか難しいはずだ)。
さて、それでは「生きる力」と「正しい答えを導く力」とには、どのような関連性があると考えられるか?社会のなかで「答えのない問題に直面している人」が「無能(=生きる力がない)」だとしても、次の要素を考えておく必要がある。つまり、世の中にはむしろ、「間違った答え」が無数に流通している。また、「答え」があるはずの場所で、間違って「決断」が下されたりもするわけだ(小泉的なもの)。
世の中にこれだけ「間違った答え」が存在するということは、「間違った答えを導いておきながら(意識的にか無意識的にか)ずぶとく居直る能力」(解決を与えたかのように振る舞う能力)が、「社会で生き抜く能力」の重要な一要素であることの、ひとつの証左だと考えることができる。だから、「正しい答え」を導くことと「間違った答え」を導くことの間には、さしあたって「生きる力」との関係で優劣が存在しないと結論できる(ようするに無関連)。
ただし、「間違った答え」の存在を先行条件とする環境において、「(そのなかで最適な)正しい答え」を導くことはやはり何らかの意味で重要だといえる。このように考えるためには、「生きる力」のうちに「どのように生きるか」という条件設定を追加しなければならないが、「正しい答え」を導く能力は、そのような条件のもとで、やはり「生きる力」に資するものだと言うことができる。「なんらかの意味」「そのような条件」が具体的に何を意味するかは、面倒だから考えない。
社会にでたら、ペーパーテストよりもめんどくさい問題が発生する。これはたぶん真実だな(苦笑)。(でもそれって、たぶん子どもも直面しているはずだけど)