中島哲也『告白』(2010)

原作:湊かなえ、出演:松たか子岡田将生木村佳乃橋本愛 
教え子にまな娘を殺された中学校教師の復讐を描くミステリー 事件にかかわった関係者たちの告白によって真相が明らかになっていく緊張感あふれるドラマ

「告白」とは自己の真率な表明であって、主観的な重みが伴うが、他者の「告白」は、その主観的真実性のもろさを暴き出し、要するに「ハシゴは外される」。自分にとっての重い真実は、他人にとっては何でもなく(「ドッカーン!」と「パッチン」)、犯罪が不条理なのもこのことに起因する。「主観的な感受性」を絶対化させた犯罪者は、被害者の主観的現実を省みることなく、そのハシゴを外し、あとに残されるのは、被害者およびその家族の痛苦だけである(これももうひとつの「絶対化された主観的感受性」なわけだ)。
しかし、犯罪者の「主観的な感受性」にも、独自の「主観的な重み」が存在しており、それは紛れもなく「外されうるハシゴ」であることを、この映画は明らかにしていく。被害者が「告白」し、加害者が「告白」し、加害者の「告白」を、さらに被害者が「告白」しかえす。主観的真実性の上書きによって、ハシゴは外されつづける。「絶対化された主観的感受性」は、絶えまなく相対化されていくものであり、「真実」とは、「なーんてね」という注釈付きでのみ、語られるものでしかないのである(無論、それがネガティヴに働くと、「なーんてね」と言いながら殺人を犯す犯罪中学生を生み出してしまうわけだが)。
そしてこのことが意外な感動を呼ぶのは、「復讐における倫理」といったものが、ここで示唆されていることによる。加害者による「絶対化された主観的感受性」に対して、被害者がもうひとつの「絶対化された主観的感受性」を対置するのでは、加害者と被害者とは、同一の構図を反復しているにすぎない。「絶対化された主観的感受性」は、「なーんてね」という「倫理」によって、その絶対性が解除されるのでなくてはならない。
人間は神にはなれず、絶対的な超越者となって他者を裁くことはできない。肯定しがたい隣人を受容へと向かわせるのは、「なーんてね」という可謬性(自己の卑小性)の自覚なのであって、かりに「犯罪者の本当の意味での更正」などというものがもしあるとしたら(松たか子は復讐者であるとともに教師である)、それはこの事実を感受せしめること以外にはない。重たい雰囲気の映像、音楽とともに、ラストの渾身のCGがマジですばらしい。松たか子もいいけど、橋本愛ちゃんはくるね。