大島渚『愛のコリーダ2000』(1976)

(104分・35mm・カラー)戦前に世間を騒がせた阿部定と石田吉蔵の猟奇性愛事件をもとに、二人の究極の愛を描いた日仏合作のハードコア・ポルノ。撮影済みのフィルムを直送しフランスで現像と編集が行われた。世界中でセンセーションを巻き起こしたが、日本国内では原型をとどめぬほどの修正とカットを余儀なくされた。本特集では『愛のコリーダ2000』を上映。
’76(大島プロ=オセアニック=アルゴス・フィルム)(監)(脚)大島渚(撮)伊東英男 (美)戸田重昌(編)浦岡敬一(音)三木稔(出)松田英子、藤竜也、中島葵、芹明香、阿部マリ子、三星東美、藤ひろ子、殿山泰司、白石奈緒美、岡田京子、松廼家喜久平、松井康子、九重京司、小山明子 (FC)

吉蔵はすべてにわたって受動的で、この受動性からくるこだわりのなさが、粋な遊び人っぽさに通じている。しかしそれはたんなる生き方のスタイルではなくて、軍靴の響きわたる昭和初期の外的事情によって、強いられたものとしてある。外部世界は不条理かつ不自由なので、せめて性愛の領域では、何物にもとらわれない完全な自由を求めているわけだ。
ところが性愛の領域(内面の領域)においても、自由を実現することは簡単ではない。愛は直ちに拘束に転化するからだ。とはいえ「自由」と「拘束」がつねに背反するというのでもない。「自由」が「何物かからの自由」であるためには「拘束」が不可欠の条件であり、「自由の条件としての拘束」という、両者の表裏一体性が原理的に存在している。
「拘束としての拘束」ではなく「自由の条件としての拘束」、「拘束」を「自由」に反転させるための内面領域でのコントロール。「性愛領域における自由」は、この映画において、そのように追求されている。さらに端的に言えば、「自由の条件としての拘束」とはつまりは「遊び」のことであって、阿部定が吉蔵との最後のシーンで「かくれんぼ」の幻想を見るのは、性愛が遊びに昇華された事態を示すものであろう(映画全体にもどこかふざけた感じがある)。これは生と死の関係性の問題にもつながってくる。
ただし、これまでの話は吉蔵目線の話であって、阿部定に「人生に対する極端な受動性」などを見てとることはできない。阿部定は理屈じゃなくて、パトスの存在なのである。吉蔵には思想があるが、阿部定には衝動しかない。フェミニストの反感を買いそうだが、おそらくそういう映画じゃないかと思ったね。映画の見方として、阿部定目線でみるか、吉蔵目線でみるか、というのがあるが、ひとまずは吉蔵に焦点をあわせて鑑賞するのが、作品の真価を把握する意味では適切だろう。
10年ぶりの再見。松田英子(阿部定)がこれほど色っぽいとは思わず、藤竜也(吉蔵)もやたらと格好良かった。年の功か、傑作であることが今更判明。たんなるエロ映画としても最高水準の出来だと思う。