脳が疲れ気味。修理に出したパソコンが修理されて戻ってきた。感動。売れそうな本を持って池袋の古書往来座へ。予想外の高額買い取りで挙動不審に陥る。「外市」は充実した品揃えで見応えがあった。u-sen氏に挨拶するかと思ったが、それらしき人は見あたらず。荻野アンナラブレーで元気になる』(みすず)、山崎正和『演技する精神』(中公文庫)、浅田彰島田雅彦『天使が通る』(新潮文庫)を購入。
『天使を通る』は以前に持っていたが、今が読み時なので入手。ダンテの「煉獄」が完成に導いた三位一体のヨーロッパ、ニーチェの「超人」概念にグッとくる。「神の死」とともに人間は主体化する、というのではなくて、人間も自我解体を余儀なくされる。「モダンの原理というのは、とにかく自分で自分を乗り越えながら進んでいくということだから、古い自分はどんどん殺して、自己を更新していかなければならない。だから、神は死んだとか、あるいは○○主義は終わった、××主義も終わったということでどんどん動いていく。ところがポストモダンになると、死ぬこと自体も死ぬ、あるいは終わること自体も終わる。したがって死んでいるとも生きているともつかないゾンビのようなものたちが情報バンクの中に宙吊りになっており、それが適宜呼び出されてきては組み替えられてエンドレス・テープのように流れるという状況になるわけですね。」(85)、「大体、超人といっても、すぐにウジにたかられてしまうような存在であり、ただそのヴァルネラビリティにおいてそれはやはり超人なんです。ただ一つだけ言えることは、ヴァルネラブルなのだけれども、その時の最大の対抗力は忘却だということですね。つまり、やられてもやられても全部忘れ、そして、どんどん動く。…」(103)。死ぬこと自体も死ぬ、終わること自体も終わる。良心による自己免疫システムさえも崩壊し、リューマチ的病気の進行した弱者が、忘却によって強者にすぐさま反転する。乗り越える原理など存在しない。「絶対的主体になるはずだった自我が、アイデンティティの支えを失って、いわば高速で交替し振動する仮面の群れみたいなものになってしまう」「そのときからすべては、一丸となって大地の支配に向かうどころか、既に自らのパロディであるような多神教的空間の中になだれこんでしまうのだ」って、これってマイコーのことでは。マイコーを本質的に理解しようとしても、その「本質」がマイコーの「自我に潜む謎」と見なされるのだとすれば、マイコーの「自我」が崩壊している以上、その試みは失敗せざるをえない、という意味でも。