「成熟」が難しくなった時代、とはよく言われる。「年齢×7割」が精神年齢、という説を某先生が御著書で述べられていた。しかし「何が成熟か」の基準自体、時代によって変化するのではないか。
かつて『成熟と喪失』という本があったが、「成熟」とはひとまず、自己を限定された存在として理解した上で、「自己限定」によって帰結される「(もろもろの可能性の)喪失」を受容することだと考えられる。消費社会化以前の近代過渡期において、自己の可能性を限定する社会的条件は満ち満ちていた。どうしようもない貧困とか、満足すべき一線の社会的自明性とか。かつて「成熟」が容易であったのは自明だろう。
だが、それだけが「成熟」なのか?「成熟」とは他面で、自己を限定した途端に生じる、無限定的な情念の噴出に堪えること、をも含むのではないか。自己を限定するなんて、言うは易く行うは難い。「喪失」なんてキッパリした話では、すまないはずだ。
逆に、現代日本人の「幼稚さ」って、「あまりに簡単すぎる自己限定」に起因していることが多い。ホリエモンの「金持ち万能発言」とか、小泉とか竹中平蔵とか。「ポストモダンだから影響力のある言説とそうでない言説があるだけ」みたいな、ある種の知識人のポジショニング偏重主義とか(朝生の東浩紀???)。「キャラ化」の過剰、みたいな現象もある。やすやすとした「自己限定」は、「成熟」ではなく、その反対物を生んでいる。決断主義の落とし穴?局部システムへの過剰適応?
自己限定の方向性が誰にとっても見出しがたい、という状況下、くよくよ悩んでいるばかりなのも困るとはいえ、しかし困ったり迷ったりすることも、大事なことだとすると、「成熟」って一体何だろうっていう、ちょっとした混乱を記してみた。まあ、アンビバレンスへの耐性こそが、「成熟」ってことだろうね(『成熟と喪失』というのもアンビバレンスを前提とした二分法なわけだし)。
睡眠不足で仮死状態なので、はやく寝ないと、お肌のダメージが大きくなる。