ナ・ホンジン『チェイサー』(2008)

韓国、125分、R-15 出演:キム・ユンソク ソ・ヨンヒ ハ・ジョンウ キム・ユジン チョン・インギ チェ・ジョンウォン パク・ヒョジュン
街では連続猟奇殺人事件が起こっている頃、元刑事でデリヘル嬢の斡旋を生業としているジュンホは、彼の元から行方をくらませた2人の女の行方を探っていた。その手がかりを握る男を見つけるも、探りを入れさせたデリヘル嬢ミジンも失踪。だが偶然ジュンホは疑惑の人物ヨンミンを見つけ、捕獲する。すると警察でヨンミンはとんでもない告白を始めた。「女たちは自分が殺した。そして最後の女はまだ生きている」と――(@映画生活

連続殺人犯を二度も取り逃した韓国警察の捜査能力は、あまりにお粗末というしかない。組織の保身の論理(エゴ)によって、犯罪捜査そのものがしばしばおろそかになる。あるいは、警察の上位組織のエゴが貫徹されて、肝心なところで目的を果たすことが出来ない。
要するに、組織が目的合理的に構成されていない。権力をもった個人の利害(エゴイズム)が優先される結果(=情実が優先する情緒的共同体の形成)、組織はエゴイズムを実現する手段の意味しかもたなくなるのだ。
この背景には「韓国流個人主義」というべきものがある。朝鮮人の感性を「率直・単純・端的・直入・きんきら・のびやか・あっけらかん」と表現したのは古田博司先生だが、こうした感性を基礎としつつ、韓国社会では、情実の通用する範囲(ウリ)とそれが通用しない範囲(ナム)が截然と分割されている(しかもウリは伸縮自在)。存在するのはほとんどエゴと等値されるべき情実の論理であって、組織本来の論理など、二次的で、たやすく無視できるものでしかない。
しかし、組織を非合理化させるこの「韓国流個人主義」は同時に、真に英雄的な(悲劇的)個人を誕生させもする。「率直」で「単純」で「あっけらかん」とした英雄的個人は、いかなる組織をも当てにせず、運命に敢然と立ち向かう。運命はしばしば容赦なく個人の思惑を踏みにじるが、そうであればこそ、個人の魂はあくまで気高く誇り高いものとして光り輝く。
韓国で実際に起こった連続殺人事件が下敷きになっている。暴力表現は相当えぐいが、抗いがたい運命にそれでもなお抗わざるをえない登場人物たちを見て、これはまさに壮大な悲劇だと魂を揺さぶられた。ミジンの運命は悲痛そのもの。韓国映画にしてはじめて可能な、大傑作です!!