後ウマイヤ朝コルドバグアダルキビル川の河畔、アル・アンダルス(太陽の沈む地)。11世紀なかばまでは、イスラームユダヤキリスト教三者共住性が確保され、傑出した思想家を輩出する(ちなみにセネカもここの出身)。イブン・ルシュド(1126〜1198)はイスラームの名門の生まれ。マイモニデスはイブン・ルシュドよりも10才ほど年少のユダヤ人。
当時のアリストテレス理解には、(1)イブン・スィーナ流の理性主義・合理主義的理解(アリストテレス主義)、(2)プロティノス流の新プラトン主義的解釈によるアリストテレス理解、の二つの流れがあった。11世紀後半のガザ−リーによるスーフィズムは新プラトン流に近く、イブン・ルシュドはこれに真っ向から反駁する。信仰と哲学の分離を強調するアリストテレス主義は、マイモニデスによっても唱えられた
しかし、ムラービト朝に引き続いてムワッヒド朝が成立すると、アンダルシアの社会状況が変化する。イスラーム急進主義、レコンキスタの圧迫などが深まるなか、イブン・ルシュドは政権内で地位をえるものの(侍医)、結局、著作の廃棄が命じられる(1197年)。彼はコルドバを去ってマラケシュへと移住し、マイモニデス一家も偽装改宗したのち、エジプトへ移住する。
死後、イブン・ルシュドの著作は、まずはマイモニデスのアリストテレス読解の影響のもとユダヤ教の圏域で読まれ、ついでトレド、シチリア、北イタリアでのラテン語翻訳を経て、1230年代のパリ大学で脚光を浴びた。理性と信仰、預言者と哲学者、という問題設定(「二重真理論」)は、ラテン・アヴェロエス主義として(パリ大学)急進派によって受容され、このことはパリ司教座、ローマ教皇庁からの警戒を呼びおこした。その際、ローマ教皇庁から派遣された理論家がトマス・アクィナスドミニコ会修道士)であり、彼は信仰と理性の二重性をふまえつつ「第三の道」を説く。トマスは結局パリ大学教授に就任するが、彼の転出後、ラテン・アヴェロエス主義はローマ教皇庁によって禁じられた(1270)。
というのは、樺山紘一『地中海』(岩波新書)のメモ。とてもおもしろい。