村上春樹『1Q84』

「BOOK2」を読了。「物語による世界の回復」がテーマ。
海辺のカフカ』では、記憶喪失のナカタさん(「記憶がなくて現在だけ」)と、四国の図書館にいる母親(「現在がなくて記憶だけ」)が配置され、性的なものと暴力的なものとが訪れることで(ジョニー・ウォーカーの殺害=父殺し)、田村カフカに実存的な回復(過去と現在の統一による自己の統合)がもたらされる、というストーリー構造が語られたように記憶する(『アフターダーク』でも同様の話型が見られた)。これに対して、『1Q84』の物語構造は、『海辺のカフカ』よりも見通しがたく、周到にバージョンアップされているように思われた。
ポイントは、「父なるもの」と「母なるもの」のいずれにも物語が回収されない点にある。オウムの麻原を思わせる教祖(父)、セーフハウスの老婦人(母)など、「父」「母」の形象はいくつか出現するが、物語は基本的に「愛」というテーマに収束する。
つまり、ビッグブラザー(父)は存在しない。連合赤軍的な解決法(絶対的な正しさの追求)は無効である(「さきがけ」)。しかし、子宮回帰的な願望が叶えられる場所(母)も存在しない。それはユートピアでしかない。
一方、個と個の対等な関係性のうえに成立するのが「愛」である。それは一方向的かつ贈与的なものであり、拒絶のリスクを含んでいる。しかし、いかなる「愛」からも見放された個人はけっして存在しない。拒絶のリスクはあえて冒されなければならない。
この問題とかかわるのが、〈「個物」と「全体」〉という問題系である。「固有名」を与えられた「個物」は、「世界の一部(部分)」であり、その意味で、「世界の全体」からは「見放されている」。個人はしばしば「愛」(=人格の包括的承認)から「見放される」。
ところが、「主語」がそれについて成り立つ「述語」の属性をすべてふくむように、個物は全体をふくんでいる(ライプニッツ)。個物Aは、「個物A以外の世界」から区別される。だとしたら、個物Aには、「個物A以外の世界」についての属性がすべて含まれているのであって、要するに、「世界そのもの」をその内部に含みこんでいることになる。
したがって、「個人」は「世界全体」から見放されている、ということはありえず、「愛の不可能性」(個物が個物であること)は、逆説的にも「愛の可能性」(個物が世界そのものであること)に通じる。天吾と青豆の関係性はまさしくそのようなものであり(青豆のなかには天吾がふくまれており、天吾のなかには青豆がふくまれている)、「空気さなぎ」とは、個物のこのような両義性(ヒトとヒトの影)に対応する象徴物といえる。
さらに、個物が世界そのものを含みうるという可能性は、「物語の可能性」にも関係する。世界の「大きな物語」は失われ(ポストモダン)、個人と世界の関連性は見失われている。しかし、世界から個人が見放されていることと、個人が世界そのものであることは同時に成立するのだから、個人の物語によって、世界を新たに紡いでいくことは可能であり、その可能性にこそ賭けられなければならない。愛の不可能性にもかかわらず、愛に賭けなければならないのと同様である。
しかし「物語による世界の回復」には、薄気味悪い両義性がともなっている(二つの月、lunatic)。ビッグブラザーによる盤石の安心感(「大きな物語」の安心感)は存在しない。物語によって回復されたはずの世界から裏切られる可能性はいつまでも残る。「連合赤軍」がめざした解答の先に「ビッグブラザー」が存在したとすれば、「リトルピープル」の邪悪さは「オウム」の邪悪さにつうじている。
しかしポストモダンの世界において、物語による世界の回復を望むことは、「リトルピープル」の存在をどう受け入れていくかという、倫理的な問いを引き受けることであろうと思われる。「父」には頼れず、「母」の受容を望むことはできない。「愛」に賭け、ときにはそこから裏切られることの覚悟をもたなくてはならない。やれやれ(笑)。

「ここは見世物の世界
 何から何までつくりもの
 でも私を愛してくれたなら
 すべてが本物になる」
 "It's Only a Paper Moon" ―E.Y.Harburg & Harold Arlen

1Q84 BOOK 1

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1Q84 BOOK 2

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