クリント・イーストウッド『チェンジリング』(2008)

CHANGELING 2時間22分 出演: アンジェリーナ・ジョリージョン・マルコヴィッチ/ガトリン・グリフィス/ミッシェル・マーティン http://www.changeling.jp/
1928年ロサンゼルス。クリスティンの息子が突然、姿を消す。5ヵ月後、イリノイ州で発見され警察が連れて来た子は別人だった……歪んだ組織に立ち向い、息子を取り戻そうとする母の、壮絶な闘いの日々を描いたトゥルー・ストーリー!!(GH)

息子と映画を見にいくはずだった休日、もし臨時の仕事が入らなかったら、もし仕事が長引かなかったら、もし目の前の路面電車に飛び乗れていたなら、誘拐は起こらなかったかもしれない。取り替え子との立ち会いの瞬間、もしクリスティンが強く否定して、子どもと写真に写らなければ、警察は捜査を続行したかもしれず、息子は発見されたかもしれず、クリスティンの苦闘もなかったかもしれない。しかしクリスティンの苦闘がなかったとしたら、精神病院の「ナンバー12」の救出はありえず、警察の浄化もありえず、さらにクリスティン自身の別人のように決然とした人格も存在しえなかっただろう。閉じ込められた金網の穴がもう少し大きければ、金網に引っかかった子どもをクリスティンの息子が助けに行かなければ…。そしてそのような事実を、傷の癒えつつあったクリスティンが知ることがなければ…。
「ほかでもありえたかもしれない」という「反実仮想」こそが、「現実」のずっしりとした重みを増大させる。「反実仮想」のほうが現実的かつ合理的であって、「現実」こそが不合理であると感じられるような不条理は、人生に満ち満ちている。クリスティンが「HOPE」という「唯一確かなもの」を手にするラストで、その決然としたたたずまいが、「しかしそれでよいのか」というためらいを同時に喚起するのは、そのような「HOPE」を決然とは選び取らない(=断念する)選択肢こそが、クリスティンにとってはより妥当な「ありうるほかの未来」を保証するのではないかと思われるからである。
「ほかでもありえたはずだが、しかし現実はそうはなってはいない」という感覚は、「すべては決定的に手遅れだ」という感覚に通じている。人生について反芻し内省することのうちには、この「決定的な手遅れ」の感覚が含まれており、現在なにかを選択することは、未来における手遅れという重たさを引き受けることかもしれないと、この映画を見ていると思えてくる。クリスティンが「HOPE」を抱いてしまったラストは、もはやすでに「決定的に手遅れな現実」なのである(このアイロニー!)。