このまえ、ふとしたきっかけで周囲に差別論が巻き起こり、「差別なんてなくならない」「区別ならいい」「いや、差別したって別にかまわない」などと煮詰まらない意見が飛び交ったのだが、あまりに煮詰まらない話だったので、自分としては口を挟む余地を見出すことはできず、しかしたぶんこういうことだろうとあとで思われたので、それを記しておく。
まずは言葉の意味。「差別」という行為のなかには、「偏見にもとづいて人を評価すること」が含まれている。ここで「偏見」とは「無知にもとづく認識」を意味する。
これには二つのパターンが存在している。(a)その種の「偏見」が規範的に維持されている場合、(b)必ずしも規範的には維持されていない場合。
パラフレーズすれば、こうなる。(b)「無知」は「知識」が新たに付加されることによって解消される。したがって「差別」は解消されうる。ただし新たな知識が付加されるとしても、解消されない「無知」もある。(a)ある種の「無知」が変更されず維持され続けることが規範的に志向される場合、「知識」の追加によっても、それが「無知」の解消にはつながらない。「差別」は維持される。
こう考えると、上記の「差別論」はなかなかおもしろい。
まず「区別ならいい」という「差別論」。これは意味内容がゼロである。「偏見」を含んだ「区別(要するに「認識」)」は「差別」なのだから、この言い方では、「差別」と「区別」が排他的に「区別」されていない。この言葉の導入によって、獲得しうる認識利得はゼロである。
「差別なんてなくならない」という「差別論」。これは正しすぎる言明であるがゆえに、認識利得がゼロ。人間は不完全な存在だから「無知」はなくならない。「無知」にもとづいて「評価」することも不可避なので、だから差別はなくならない。自明すぎて困る。
「差別したってかまわない」という「差別論」は、なかなかユニークで面白いが、粗雑さを含んでいる。
(a)の「差別」の場合、それは、知識を付加しても「無知」が解消されないような態度を正当化することを意味する。これはインテリジェンスの欠如を容認する態度である(あるいは、インテリジェンスの発揮を妨げてでも守るべき価値観が存在していることを主張する態度かもしれない。フランス革命に反対する王党派とか。「人間は平等?んなもの知らねえし知りたくもねぇーよ」みたいな)。
(b)の「差別」の場合、それは、知識が追加されれば解消されるはずの「無知」を、しかしそのまま放置することを容認する態度を含んでいる。これは人間の怠惰を容認する態度である。事実として人間は怠惰であり無知であるかもしれないが、それが規範的にも容認されうる状態であるかは、疑問のあるところだろう。
「差別はなくならない」が「差別はしてはならない」。こういう普通のことがどうして言えないのかねぇ?頭がわるいんだろうか?