ドゥニ・ヴィルヌーヴ『灼熱の魂』(2010)

INCENDIES カナダ・フランス映画 フランス語 131分 PG12 出演: ルブナ・アザバル、メリッサ・デゾルモー=プーラン、マキシム・ゴーデット http://www.shakunetsu-movie.com
ずっと心を閉ざして生きていた母親ナワルは、謎めいた遺言と二通の手紙を残してこの世を去る。双子の姉弟ジャンヌとシモンは遺言に導かれ、初めて中東の母の祖国を訪ねるが、そこで探り当てた知られざる母親の過去と家族の宿命とは… 衝撃のヒューマン・ミステリー!!(GH)

レバノン内戦に想を得たフィクションで、もともとは舞台作品。一見の価値がある傑作。
公証人が、双子の姉弟に母ナワルの遺言を聞かせるシーンから物語は始まる。母の遺言は、姉弟の兄と父を探し出せというものであり、姉ジャンヌは遺言どおり、カナダから母の故郷である中東へと飛ぶ。そこで姉が出会うのは、言葉の通じない現地の人々であり、母に対する彼らの敵意・忌まわしい記憶であった。キリスト教の部落に育った母は、イスラームのアラブ難民の男と恋に落ち、子を宿したのだが、そのことによって恋人の男は(兄によって)殺され、母ナワル自身も中東部族社会の風習である「名誉の殺人」の対象となりかけたのだ。
ここで、「公証人」と「言葉の通じない人々」(バルバロイとでも言うべきか)という対照がすでに示唆的である。公証人にとって、言葉は神聖なものである。しかしその神聖な言葉が、同時に他者との間に壁を巡らせ、コミュニケーションを疎外する阻害物となりうる。言葉は神によって与えられたものだが、しかしその言葉によって人々の間に隔たりを設けたのも他ならぬ神である(=バベルの塔)。完全言語が失われた世界の混乱を生きることが、人間の宿命なのだ。
同じことが見事に映像化されているのが、母ナワルが息子を生み落とすシーン、あるいは政治犯として15年間収容された刑務所でレイプされ子供を出産するシーンである。人間はキレイに生まれてくるのではなくて、血まみれでこの世に生を受ける。生きることは苦難にほかならず、苦難と不条理の只中に、それでもなお生きることの価値が見出されなければならない。孤児院の息子を捜す旅に出た母ナワルは、乗り合わせたバスをキリスト教右派のゲリラに襲撃され、一人だけ助かる。酷薄な旧約的世界観が強烈な印象を残す。
ちなみに、母ナワルの娘ジャンヌが純粋数学を専攻しているのも、同じ意味で興味深い。数学的明晰性は神の存在証明であると同時に(オイラーディドロへの発言)、数学の明晰性自体が混沌へと通じる。ラスト付近で重大な事実を知った弟シモンが、「1+1=1」と熱に浮かされたように呟くシーンも意味深げである(具体的には母から預かった封筒のことが念頭に置かれているシーンだが、次のように考えることもできる。すなわち、至高の一者である神から、無限の宇宙が流出すると見れば、1=1+1+…と数学的条理を逸脱する論理が帰結するわけだ)。
さて、この映画を結末まで見て誰でも想起するのは、ソフォクレスオイディプス王』であろうが、それに加えて、「恐怖の連鎖を破壊する」という9・11後の世界における倫理的テーマが据えられており、考えるべきことは少なくない。とくに、母の最後の手紙のなかで繰り返される「共にあることが大事」という言葉が、やはり重要である。ナワルは最初の息子と隔たったばかりに、そこから想像もつかないほど巨大な恐怖と不信と不幸が芽生えることとなった。隔たりは危険であり、共にいること(共在)の知恵が積み重ねられなければならない。シチリアのノルマン王国みたいな感じで。
中東で娘ジャンヌは「通訳」を介して母を敵視する人たちと出会う。弟シモンが兄の行方を知っているイスラーム系ゲリラの親玉と会うために必要だったのは「ともにお茶を飲むこと」である。隔たりを埋める知恵は確かに存在する。隔たりを克服する努力としての、事実性の積み重ねこそが「共にあること」の意味だと知らされる。


完全言語の探求 (平凡社ライブラリー)

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