「あなたはなぜウチの会社を志望したのですか?」「××だからです。」という一連の応答があるとして、「それは別の会社でもできるんじゃないんですか?」という質問が続くのは果たしてOKか?
これがOKでない可能性を検討してみる。志望者に仕事の適性があるかどうかは、まだ仕事についていない志望者自身よりも、選ぶ側の方が分かるに決まっている。志望者は「もし自分に適性があったら雇ってね」という「賭け」の態度で臨むしかない。
採用者と志望者の間の「情報量の非対称性」を前提とすると、志望者自身に「就職先に本当に適性があるか?」を問うことは不合理だし、志望者自身がそれに回答せねばならないと強迫的に思い込むことも不合理。だから「ウチの会社の志望理由」の過剰な説明要求は本当はおかしい。
しかし「自己実現としての就活」という意味論が前提となると、事情は異なる。その場合、志望理由が突っ込んで聞かれるのは、当たり前だと感受される。「これが本当にあなたのやりたい仕事か?」を自問自答し、かつ、相手方から聞かれるのは、「本来の自己」に近づくための当然の営為というわけだ。
だがこの意味論はやはり胡散臭いのである。たとえば「テレビ局員になること」が「自己実現にとって必須」と思われるのは、明らかにおかしい。テレビ局員になることの意味は「情報の非対称性」によって隠されているし、「実現すべき自己」なんてやってみないと分からない。
しかしこの意味論に絡めとられていく構造機制というものが、確かに存在しているようにも思える。