テレンス・マリック『ツリー・オブ・ライフ』(2011)

The Tree of Life 出演:ブラッド・ピットショーン・ペンジェシカ・チャステインほか
1950年代半ばの中央テキサスの小さな田舎町。幸せな結婚生活を送るオブライエン夫妻と、彼らの子供である3人の兄弟。父は、信仰に厚く、男が成功するためには「力」が必要だと考えている厳格な男。母は、自然を愛で、子供たちに対しては精いっぱいの愛情を注ぎこむ優しい女。だが、3人兄弟の長男ジャックの心は、そんな両親の狭間で常に葛藤していた。大人になって「成功」したジャックは、深い喪失感の中、自分の人生や生き方の根源となった、テキサスの小さな街で家族とともに過ごした少年時代に想いを馳せる・・・。「父さん、あの時の僕はあなたが嫌いだった・・・。」wald9

映画のレビューで酷評する人も多いみたいだが、気持ちはわかる。
http://www.jtnews.jp/cgi-bin/rv_19280.html%3FSELECT=20525
帰り際「男の子の子育ては難しいのよねー」とおかしな感想をもらしているお母さんもいたが、たしかにまあ、こんなにやりたい放題やってる映画だとは予想だにしなかった。火山が爆発したり、隕石が落下して恐竜が絶滅したり。あと、犬と、爬虫類系の動物がやたらと登場する。ただし、以下のような点に留意して見ると、なかなか良い映画なのではないかと思われた。映像はすさまじく美しい。
冒頭、次のような独白が入る。
"There are two ways through life. The way of nature and the way of grace. You have to choose which one you will follow."
「自然natureと恩寵grace」などと言われると、「恩寵は自然を破壊せず、むしろこれを完成する」というトマス・アクィナスの有名な言葉が思い出されるわけだが、アウグスティヌスの恩寵概念にまで立ち返って、両者を対比的に考えるとするなら、次のようになる。「(1)自然性の延長上に救いが(・神が)存在するとの立場」vs.「(2)人間の自然的本性は堕落しているのだから、恩寵は神の一方的な恩恵による、とする立場(=人間の自由とは悪をなす自由にすぎない*1)」。
「人間は偉大と悲惨の中間者」だと言ったのはパスカルだが、人間は、卑小でありながら、同時に神の存在を感知しうる存在でもある。このとき「卑小さ」にポイントを置けば「恩寵論」が、「偉大さ」にポイントをおけば「自然論」が、それぞれ導かれる。
両概念は対立させることもできるが、トマス・アクィナスのように、両立させて考えることもできる。例えば、自然のフラクタル幾何学的構造のなかに、神の意志を見てとってもよい。作品中、ブラピの息子は建築家となったが、これは必然的な設定だろう。彼は「自然」の側から神に対する問いを発しているようにも思える(宇宙そのものが神の意志としてあるという汎神論的感覚)。あと、クラシック音楽の効果的挿入を見ても、18・19世紀的なロマン主義的な自然観がうまいこと作品のなかに取り込まれているようにも思えた。旧約的世界観をスメタナとかマーラー(たぶんマーラーの旋律だったはず)とかブラームス(演奏はトスカニーニ)と一緒に表現するってのは、かなり独自だと思う。
しかし「恩寵」と「自然」を両立させることが、倫理的に許されない局面も存在する。神は隔絶した偉大な存在であるはずなのに、人間と神との間に「理解の通路」があると仮定することで、人間の側に「傲慢」が芽生えるからだ(だから一神教の神は偶像崇拝を禁止する)。神に近づいたと誤認する人間は、他の人間を支配しようとしてしまう。これはダメ父親であるブラピが陥った罠。「おまえを理解しているよ〜」とかいいながら、偽善的な支配的権力を及ぼしているにすぎなくなる。ブラピはダメパパすぎるが、このような傲慢はすべての人間にとってのトラップなのであって、「ブラピは私だ!」と見るのが、信仰的には正しいのかも。ヨブ記的主題。
まあ、こんな感じ。

*1:アダムとイヴはこの「自由」を発揮して、エデンの園でTree of Life(生命の樹)の知恵の実を食べちゃったわけだ。