仕事がようやく小休止となって、気が緩みついでにいろいろダベっていたら、本居宣長がいかに仕事をこなしたかという話になって、興味が湧いたので帰宅後ものの本を調べてみたところ、宣長の樹立した「もののあはれ」のコンセプトは、当時の俗文芸を母胎としているとの説があるそうで、そもそも宣長の『古事記伝』も独断と精読の入り交じった奇妙なテキストであるらしい。そういえば数日前、ある学者の政治的伝記なる本を、一万円もするのに積ん読状態だったので引っ張り出して読んでいたのだけれど、そりゃもう言行不一致も甚だしい人物で、偏見と階級的差別意識が丸出しなのが、うすうすそう思っていただけに、説得的に響いたのだった。この人も異常な仕事量で知られる。
それにつけても思われるのは、偏見なり独断なりが人間に与える、エネルギーの強力さである。人間がたくましく生きていくためには、偏見や独断が必要不可欠で、それと知性とのバランスがおそらく重要なのだろう。一方、公平無私な姿勢と知性の共存は、どこかで不健全さを招くのではないかなどとも思われるのだが、これは気のせいだろうか。