石原立也・武本康弘『涼宮ハルヒの消失』(2010)

制作 京都アニメーション、2時間42分53秒 キョン杉田智和)、涼宮ハルヒ平野綾)、長門有希茅原実里)、朝比奈みくる後藤邑子)、古泉一樹小野大輔)、朝倉涼子桑谷夏子)、鶴屋さん松岡由貴
高校1年生の冬、ハルヒ率いるSOS団の面々は以前と変わらず普通の学校生活を送っており、来るクリスマスに向けて部室で鍋パーティを開くことを企画していた。12月18日の朝、いつもの登校路でキョンは風邪を引いた谷口との会話が噛み合わないことに違和感を持った。……本来ハルヒの席であるはずのキョンの後ろの席に座ったのは、半年前に長門有希との戦闘に敗れ消滅し、表向きはカナダに転校したことになっていたはずの委員長、朝倉涼子だった。…(wiki

エンドレスエイト」で物議を醸した『涼宮ハルヒの憂鬱』ですが、『消失』はまあ評価は高いですね、とのオタクO氏情報を得て、いざ新宿バルト9へ。大作アニメであった。
何が素晴らしいかといえば、風景や音の描写が圧倒的に素晴らしい。西宮の夙川がそのまま再現されているらしい。夜景もとてもきれい。これだけでも一見の価値はある。http://www.rinku.zaq.ne.jp/p_v/haruhi.html
テーマは、キルケゴール風にまとめれば美的実存から宗教的実存へ、という感じで、一度はそこから退却したセカイに再びコミットするという『ヱヴァ新劇場版:破』でも見られた構図がなぞられている。その意味でこの作品はキョンが主人公である。ただしロボットが心をもつ(バグとエラーが心と等値される)というフランケンシュタイン図式からすれば、主人公はあきらかに長門有希といえる。こうした多義的な物語設定自体、なかなか良く出来ていると感心させられる。
私としては「このセカイにとってツンデレ娘とは何者か?」という問いを、あえて分析の中心に据えたい誘惑に駆られる(笑)。この物語が、つねにメタ的な客観性を保持しているキョンの、ビルドゥングスロマンであるならば、物語を経てキョン涼宮ハルヒをどのように再発見するか、という問いが新たに成立すると考えられるからだ。
面倒なので詳論は避けるが、重要なのは次のことだ。ツンデレ娘とはオタクの自己愛的防衛機制と共生関係にあり、退却したはずのセカイ(女)と関与する契機を、自身の積極的なコミットなしに獲得できるのが、ツンデレの隠された機能となっている。冷静でニヒリスティックなキョンがセカイと関わるのは、傍若無人で気まぐれなツンデレ娘=涼宮ハルヒの存在あってこそなのである。しかし宗教的実存に目覚め、自己愛からの脱却を果たしたキョンが、その成熟した目で涼宮ハルヒをふたたび見た場合、そこで生じる変化は無視できないものとなりうる。それまでオタクの側の積極的コミットを免除させ、自己愛を温存しつつのセカイとの関与を可能にしていた「ツンデレ娘」は、おそらく「天然娘」へとその存在の意味を変容させているはずだからだ。
要するに、じつは「ツンデレ娘」とは、幼児的万能感を温存させたもう一つの自己愛的存在なのであって、成熟を果たしたキョンにとって、「自分の言うことなら何でも聞くのが当たり前」という涼宮ハルヒは、「甘ったれるな」という存在に変容している可能性がある。ひとたびセカイにコミットしたキョンは、涼宮ハルヒを見て「セカイにコミットするというのはそういうことではない」と不満を抱く可能性があるのだ。だからこの作品については、「このセカイにとってツンデレ娘とは何者か?――ツンデレ娘が天然娘に変貌するとき――」と、サブテーマ付きでまとめておくのが適切なように私は思うのである。