山崎正和『鷗外 闘う家長』(新潮文庫)。漱石以降、近代日本の文学者において「近代的自我」の等価物は、その圧迫を以て「自己」の存在を感知せしめる、種々の不快感(病が典型)によって充当されたが、国家建設と青年期の重なった鷗外にとっては、そうした退却的なポジションは採用できるものではなかった。
「「私は此世に生れた以上何かしなければならなん、と云つて何をして好いか少しも見当が付かない。私は丁度霧の中に閉ぢ込められた孤独の人間のやうに立ち竦んでしまつたのです。」(「私の個人主義」)/そういって立ちすくむことのできた漱石にたいして、鷗外の場合にはなすべき仕事が過剰に明白なかたちであたえられていた。漱石にとって、日本人が英文学を研究することの異和感は始めから明らかであったが、鷗外にとっては、日本の近代医学を確立することも国防軍を建設することも、さしあたり疑問の余地なく有意義な課題であった。仕事の困難さからいっても、漱石が仕事を始めるまえにすでにたじろがざるを得なかったのにたいして、鷗外はむしろ、「日々の要求」をあまりにもやすやすと果たして行ける自分に不安なのであった。逆説的ないい方だが、人生がそこにあるという確実な手ごたえを、不運な漱石は人生の生きにくさというかたちで朝夕に実感することができた。これにたいして不適合を知らぬ幸福な鷗外は、あたかも鋭利な刀が空を切るように人生の存在感の稀薄に苦しんだのだといえる。そして、この明白な不適合から出発した漱石は、やがて英国へ行って、それを裏返した明白な「自己本位」の立場に到達し得た。」(27−28)
』のお玉について。なかなか興味深いことが書いてある。

この型の人物は一様に無欲であり献身的であり、つねに勤勉であって、しかも晴れやかな表情を浮かべている。精神的にはどこまでも健康であり、行動は積極的で、人生の現実に生まれつきの適合を示しているように見える。表面的には、彼らほど自己の生き方に素朴な確信を抱いた人間はないように見えるのだが、しかし注意して見ると、この献身も勤勉も晴れやかさも、彼らの自然というにはいささか過剰であることが感じられるであろう。

たよりに思う父親に、苦しい胸を訴えて、一しょに不幸を歎く積で這入った門(かど)を、我ながら不思議な程、元気好くお玉は出た。切角安心している父親に、余計な苦労を掛けたくない、それよりは自分を強く、丈夫に見せて遣りたいと、努力して話をしているうちに、これまで自分の胸の中(うち)に眠っていた或る物が醒覚(せいかく)したような、これまで人にたよっていた自分が、思い掛けず独立したような気になって、お玉は不忍の池の畔(ほとり)を、晴やかな顔をして歩いている。
 もう上野の山をだいぶはずれた日がくわっと照って、中島の弁天の社(やしろ)を真っ赤に染めているのに、お玉は持って来た、小さい蝙蝠(こうもり)をも挿(さ)さずに歩いているのである。

逆境にあってひとが気負った明るさを見せるのは珍しくないが、この場面のお玉の「晴れやかさ」はたんにそれだけのものではない。…このときのお玉の内部にはもうひとりの自己がめざめていて、みずからの非運を含めて現実を冷たく見おろしているからである。このときから、お玉は自分をとりまく人間を「意識してもてなすやうに」なり、そして彼女自身、自分の優しさがどことなく過剰で、人工的なものであることを感じとるようになる。人生の「責任者」は、他人との人間関係をみずからの手で作り出すひとであり、それゆえに、この世の人間関係をどことなく作りものとして感じる習癖を持つことになる。彼らは人生の演出家であるが、その姿勢はいつしか現実を芝居として眺め、自分自身をすらそのなかではひとりの役者として見る習慣を作りあげる。逆境のなかで責任をひきうけて喘いでいるのはその役者であって、少なくとも彼らの自己の半分は、局外に立って苦境を傍観している意識を保つことができる。役者が勤勉と自己犠牲を熱演すればするほど、その熱演が逆にもうひとりの自己を冷静な傍観者に育てるのであって、ほかならぬこの傍観者の静かさが、お玉の表情をかすめるふしぎな「晴れやかさ」となって現われるのである。(143−144)

前に読んだのを再確認してみたんだが、やっぱり深いね。