陳凱歌『私の近衛兵時代』(講談社現代新書)。抗日運動に燃えて国民党に入党した過去ゆえに父親が文革で吊し上げられ(入党当時、共産党の存在すら知らなかったというのだが)、その父親を裏切った体験などが記されている。『さらば、わが愛』の終盤のシーンでは、明らかにこの体験が投影されているのだと分かる。
あと、この本を読むと、やっぱりあの映画は普通の意味での「悲劇」じゃないよなって気がする。「悲劇的個人が逃れがたい運命を引き受けるのだ」と言ってみても、それを「運命」と名指すには、対象があまりにも混沌としすぎていて定まりがたいし(結局どんな人生だったかが当人にとっても分からない)、あるいは「引き受ける」という表現にしても、それとは遠く隔たった、痛々しい意識の混乱が見出されるばかりである。むしろ「絶望」もしくは「絶望への共感」が根本に置かれていると見るのが妥当かもしれない。登場人物の自死にしても、混沌からの逃避、人生において安堵を希求する最後の望み、などが中心にあって、「人生の美学」を完成させる、という安穏なものではなさそうだ(そういう要素もなくはないが)。

一人一人の利益や権利が国家を通してのみ実現される制度とは、要するに、個人のすべてが国家の恩恵としか見なされないということだ。就職や住居、移動や教育、そして出産から結婚にいたるまでのすべてに、国家が決定権をもっている。そのような社会で恩恵を放棄することは、生存そのものを放棄するに等しい。つまり、何が何でもこの社会に残る以外に選択の余地はないのだ。(中略)
文革とは、恐怖を前提にした愚かな大衆の運動だった。スローガンがどれほど立派で、旗印がどれほどきれいであろうとも、また情熱がどれほど感動的であろうとも、それは本来のイデオロギーや理想とは無縁だった。暴力が際限もなくエスカレートしていったのは、他人に劣るのを恐れたからだ。人々は競争を繰り返し、張り合い、自分が集団に忠実なことを必死に証明しようとした。そこで、同じ指導者の指揮を受けながら、双方が戦火を交えるという事態が起こったのだ。…(108−109)

上記引用の陳凱歌の分析は、通常の大衆社会論のようでやや物足りない。「愚かな大衆運動」が暴力に転化する場合、「暴力や排斥の対象としての外部/内部」の分断線が引かれる。しかし内部集団は、イデオロギー集団であったり、民族集団であったりするのが普通で、中国のように家族同士ですら内部集団としての凝集性を保てないというのは、きわめて異常なことのようにも感じられる。「内部」が「個人」のレベルに切り詰められ、個人と国家が剥きだしの状態で向かい合ったならば、人々が恐怖におののくのは必然的な帰結かもしれない。