池谷裕二糸井重里『海馬』(新潮文庫)。脳はつかれないとの記述。本当?じゃあこの疲労は何なんだ?と思う。脳科学の知見はともかく、「オレはクリエイティブなのに学校では勉強ができなかったんだけど頭がいいって結局どういうことなの?」という糸井重里のスタンスが、糸井がもともと厭わしいこともあって腹立たしい。脳の啓蒙本としては面白い本だが、「〜っていう言葉はいいなぁ〜」とお互いがほめ合っているのもうっとうしい。
内田ジュは、それが何だかわからないものを理屈抜きに学ぶ能力の獲得が、市民的成熟にとって不可避の条件だ、との教育論を展開。丸暗記のペーパーテストもその点では肯定されうる。

幼児に要求されるのは、「自分にはまだその有用性や意味が理解できないことについても、年長者が『いいから、黙ってやれ』と告げたことについては、判断を保留して、とりあえず受け容れてみる」というマインドを身につけることである。
これは間違いなく市民的成熟の第一歩である(第一歩にすぎないが)。
このマインドを身につけた子どもは学校のテストで高いスコアをマークする。
それからしばらくすると、次には「自分にはまだその有用性や意味が理解できないことについては、年長者が『いいから、黙ってやれ』と告げたことについても、『納得できなければやりません』と言い返す」力を身につける段階に達する。
これもまた市民的成熟には不可避の経路である。
「ものには順番がある」ということである。
初等教育においては「言われたことをやる」能力が「言われても納得できないことは拒否する」能力よりも優先的に開発される。
当然のことである。
六歳の子どもに「拒否権」を認めたら、たぶん相当数の子どもは学びを選択しないからである。
漢字が書けず、四則計算ができず、アルファベットが読めない、太平洋戦争の戦勝国を知らない、といったタイプの子どもたちが成人して、社会の構成員になった場合(すでになっているが)、彼らは「社会の弱い鐶」になる。
その数が成員の数パーセントくらいまでにとどまれば、支えることはできる。
だが、それを越えたら、彼らを支えるための社会的コストで共同体は疲弊し、いずれ環境への適応力を失ってしまうだろう。
それを防ぐためには、子どもに確実に成熟への階梯を登ってもらわなければならない。(2009.06.27のブログ)

「いいから、黙ってやれ」というのは脳科学的には頭がよくなさそうだが、「他律が自律を形成する」という局面においては、頭がよくないようなこともあえてやんなきゃならない、ということだろう。小学生段階だと脳科学的にもたぶんOKだろうし。